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Posted by オオサカジン運営事務局 at

2014年04月20日

今庄宿早春 


今庄のカタクリ


4月9日、カタクリが咲くという福井県北国街道今庄宿を訪ねました。
有名なカタクリの群生地は、シカの食害とかで地元の方も嘆くほどまばらな咲き方となっていたのは残念でした。
それでも、群生地そばの新羅神社の宮司宅で茶菓の接待を受けているうちに、宮司さんが勤務されていた会社が、偶然にも、以前妻が勤めていた会社と同じであったことが分かり、共通の知人の話などで思いがけず話が弾んだりしたこと、お願いしたボランティアガイドさんが親切で、町内の歴史的建物の案内や、ご自分の車を駆って10数キロ離れた木の芽峠へ案内いただいたことなど、思い出の残る旅の一日となりました。

朝鮮半島との交流がうかがえる新羅神社


塗籠めの外壁と赤みの強い越前瓦屋根の上の卯建(うだつ)がひときわ目立つ京藤甚五郎家は、天保年間に建てられた歴史的建造物です。

京藤甚五郎家


京藤甚五郎家の内部

 
古くから交通の要衝であった今庄は、貴賤を問わず多くの人々が往来しました。明治11年、北陸御巡幸の明治天皇の行在所が、福井藩本陣であった後藤家になりました。この屋敷跡は今は小さな公園となっていますが、一角に当時の座敷が再現されて明治殿となっています。置畳の上には玉座という説明版が立っています。見物客にはこの“玉座“に座って写真を撮る人もいるそうですが、本物ではなくてもさすがに上に乗ることは憚られました。

明治殿内部と玉座


 カタクリの群生地の背後の山頂に燧ケ城址(標高279m)があります。源平合戦寺の維盛・義仲、南北朝時代の足利勢と義貞、一向一揆と信長軍の戦など何世紀にわたって戦略上の要略拠点となってきました。城跡から今庄の町が俯瞰できます。明治以降も蒸気機関車の給水・給炭基地として栄えた今庄の町も今は歴史と観光の町として生きようとしているようです。

燧ケ城址


燧ケ城址から今庄宿俯瞰>


 今庄宿の南端に建つのが「文政の道しるべ」です。文政13年(1830年)建てられたこの石碑は、石柱の頭の部分に火袋があるのも珍しく、北陸道(右 京、敦賀・若狭)と、北国街道(左 京、伊勢・江戸)の追分の道しるべとなっていました。

文政の道しるべ


 北の庄の勝家が、安土への最短路として栃ノ木峠の大改修を行って以来人馬の往来が頻繁になり、越前南端の重要関門となった板取宿は、江戸時代には関所が設けられ板取番所なりました。
今でも石畳の旧道の両側に甲造り型、妻入り型の茅葺の民家が昔のまま残っています。

甲造りの家


 木の芽峠(628m)を通る北陸道は、平安時代に開削された古い官道です。戦国時代にはこの山にいくつもの城塞が築かれました。
明治になり、鉄道の開通などにより峠の歴史的使命が終わりましたが、今でも峠の急坂には石畳道が残って往時を偲ばせています。

木の芽峠の旧道



  

Posted by むかご at 10:45Comments(4)