2014年02月16日
窓外雪景色

2月14日~15日、九州から四国、近畿、東海、関東、東北から北海道まで、日本列島太平洋岸全域に、ところによっては120年ぶりという大雪となりました。
高槻でも夜明け頃から降りだした雪は、またたくまに一面銀世界に変えてしまいました。
あまりの雪で雪見にも出そびれて、ただ窓の外の降り積む雪景色を眺めていました。
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14:45
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2014年02月13日
美山雪景


かやぶきの里美山町の雪景色を見に行きました。
雪が降ると毎年のように雪見に行っているのですが、雪が降った直後は普通タイヤでの運転に自信がなく、時間をおいて訪れる頃にはたいてい雪が半ば融けていて、不満足な雪見となっていました。
東京で何十年ぶりかの大雪となった7日朝の雪は、美山でも大雪と伝わりました。
12日、気になってライブカメラで確かめると、その後の低温続きもあってか、降雪からまる6日もたつのにかやぶき屋根に雪が残って一面の雪景色がひろがっていました。
季節を問わず何度となく通った美山では、カメラアングルもマンネリとなっていますが、これだけの雪となると、同じアングルも新鮮な感覚を覚えていました。
スライドショウも御覧ください





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15:01
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2014年02月09日
千本釈迦堂:賢妻“おかめ”はおかめ顔だった?
京都北野天満宮の東方に、12月の大根焚き、2月のおかめ節分で知られる通称千本釈迦堂、瑞応山大報恩寺があります。
千本釈迦堂南門
鎌倉時代初期の承久3年(1221年)、求法上人義空によって創建されました。義空は藤原秀衡の孫で比叡山で修行の後、当寺を建立しました。
国宝の本堂とシダレザクラ
目立つのが境内の東側にあるのが“おかめ”の像です。
おかめ塚とおかめの像
本堂を造営する際、大工の棟梁であった高次が代りのない柱の寸法を切り誤ってしまい困っていたところ、それを見た妻のおかめが斗組(ますぐみ・とぐみ)を使って高さを調整してはどうかと助言し、その結果無事に竣工させることができました。
しかしおかめは女の提案で大任を果たしたことが知れては夫の恥と上棟式を待たずに自害してしまいました。高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔(おかめ塚)を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾ったとされています。
おかめとは、丸顔、鼻が低く、額は広く、頬が丸く豊かに張り出した(頬高)の特徴をもつ古くからある女性の仮面で、そこから同じような顔をもつ女性をおかめまたはお多福などと呼んで、憎めないものの、醜女の別名のようになってきました。
賢妻おかめの像は、まさに“おかめ“そのものの顔をしていますが、実際のおかめさんはこんな顔をしていたのでしょうか。名前が”おかめ“だから”おかめ顔“というのではおかめさんが可哀そうな気がするのですが。

千本釈迦堂南門
鎌倉時代初期の承久3年(1221年)、求法上人義空によって創建されました。義空は藤原秀衡の孫で比叡山で修行の後、当寺を建立しました。

国宝の本堂とシダレザクラ
目立つのが境内の東側にあるのが“おかめ”の像です。

おかめ塚とおかめの像
本堂を造営する際、大工の棟梁であった高次が代りのない柱の寸法を切り誤ってしまい困っていたところ、それを見た妻のおかめが斗組(ますぐみ・とぐみ)を使って高さを調整してはどうかと助言し、その結果無事に竣工させることができました。
しかしおかめは女の提案で大任を果たしたことが知れては夫の恥と上棟式を待たずに自害してしまいました。高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔(おかめ塚)を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾ったとされています。
おかめとは、丸顔、鼻が低く、額は広く、頬が丸く豊かに張り出した(頬高)の特徴をもつ古くからある女性の仮面で、そこから同じような顔をもつ女性をおかめまたはお多福などと呼んで、憎めないものの、醜女の別名のようになってきました。
賢妻おかめの像は、まさに“おかめ“そのものの顔をしていますが、実際のおかめさんはこんな顔をしていたのでしょうか。名前が”おかめ“だから”おかめ顔“というのではおかめさんが可哀そうな気がするのですが。
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09:50
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2014年02月06日
釘抜地蔵:釘抜で引き抜く諸々の苦
西陣の東地区、千本通りから東に入ると短い参道があり、本堂の前にある大きな釘抜きが目立つのが釘抜地蔵で知られる石像寺(しゃくぞうじ)です。
石像寺は、空海によって弘仁10(819)年に創建されたお寺で、遣唐使として唐に渡った弘法大師が持ち帰った石に自ら地蔵菩薩を彫り、人々の「諸悪・諸苦・諸病を救い助けん」と祈願されたことから、諸々の苦しみを抜き取ってくださるお地蔵様ということで「苦抜(くぬき)地蔵」と呼ばれるようになり、その後「くぬき」が訛って「くぎぬき」の名で知られるようになったといいます。
本堂の外壁には苦しみから解放された人々が奉納した、実物の八寸釘と釘抜きを貼り付けた絵馬が多数貼られています。

山門

本堂前の大釘抜き

実物の八寸釘と釘抜きを貼り付けた絵馬
釘抜地蔵と同じように人々の苦労を取り除く地蔵さんで知られているのがおばばちゃんの原宿で知られる東京巣鴨の商店街の奥にある “とげぬき地蔵”です。
何ものかに頼って苦を取り除いてほしいと願う気持ちは東西を問わないようですが、刺にしろ、釘にしろ引き抜いてもらうのには多少の痛みもあるということでしょうか。
Posted by むかご at
15:49
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2014年02月05日
食物連鎖の頂点に立つオオタカ:大鷹の食事

近くの芥川の堤防を歩いていると、精悍な目と鋭い嘴をもった鳥が、獲物の鴨?をしきりに啄んでいました。カメラを向けても食事に夢中なのか一向に逃げる気配もありません。
少し前から見ていた人の話では、飛行中の鴨を空中で捉えて、水辺に降り、獲物を何回も水中に沈めて息の根を止めてから食べだしたそうです。
寫眞を撮って帰り鳥に詳しい方に見てもらいました。以下はその方からのメールです。
「この鳥はオオタカの成鳥で、狩りのやり方もオオタカがよくする方法です。
オオタカは私達の身近な場所で見ることのできる鳥の中の頂点に立つ鳥です。
イヌワシ、オオワシ、クマタカ等オオタカよりも大きな猛禽類はいるのですが、局地的で絶滅危惧種等で数もとても少なく私達が目にすることはめったにありません。なので、オオタカは平野部の鳥の食物連鎖の頂点に立つ鳥です。ハトからダイサギ、ハシブトガラス等大型の鳥を襲いますし、ウサギ等も狩ることがあります。
写真のオオタカは成鳥で狩りも効率的でとても上手のようです。幼鳥や若鳥は同じ種とは思えないほど体色や模様が違います。幼鳥や若鳥の時にうまく狩りができずに餓死する場合も結構有るそうです。襲うほうも襲われるほうも必死ですね。
なので、普段は警戒心が強く人の姿をみれば逃げるのですが、獲物を捕まえた時は離さないし、その場から逃げる事はめったにありません。カラス等に奪われないように必死で食事をしていたと思います。」
当たり前のこととはいえ、冷酷な食物連鎖の現場を目の当たりに見て、改めて自然の厳しさを感じていました。
Posted by むかご at
14:33
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2014年02月03日
二つの文子天満宮
北野天満宮の北東側に北野天満宮の前身ともいわれ、天神信仰の発祥の地と呼ばれる文子(あやこ)天満宮が鎮座します。
延喜元年(901)菅原道真讒言により大宰府に左遷されますが、京を離れる前に乳母の多治比文子に神像を託しました。その後、文子は家に祠を建てて道真を崇め祀ったといわれ、これが文子天満宮の起こりとされます。道真の霊は北野の地に鎮まることを望みますが、文子は貧しくて社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅の近くに小祠を建て道真を祀ったといわれています。
その後同様の神託が複数の霊能者に下ったため文子の天満宮は現在の北野の地に移されます。

北野天満宮東の文子天満宮
北野天満宮東の文子天満宮もとの文子天満宮はいまも下京区間之町にあって、天神信仰発祥の神社、北野天満宮の前身神社とされて今も参詣者を集めています。

元祖文子天満宮
2月は天神の月、月明けの北野天神の梅はまだ数輪だけの春でした。

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12:25
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2014年02月02日
京都浅雪
1月19日大寒波というので、京都嵐山から嵯峨野へ雪見に行ってきました。寒さの割には雪は浅く、期待ほどの雪景色で無かったので、次の寒波に期待しようと、記事にするのをひかえていましたが、急に暖かい日が続き一気に春になりそうなので、遅ればせですが今冬の記録として取り上げます。

嵐山法輪寺

法輪寺3重塔

法輪寺展望台から桂川

嵐山のパノラマ

鳥居本平野家

大覚寺大沢の池

嵯峨野

広沢の池

金閣寺

金閣寺

嵐山法輪寺

法輪寺3重塔

法輪寺展望台から桂川

嵐山のパノラマ

鳥居本平野家

大覚寺大沢の池

嵯峨野

広沢の池

金閣寺

金閣寺
Posted by むかご at
10:32
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