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Posted by オオサカジン運営事務局 at

2013年05月30日

高尾山再訪 

東京へ出たついでに、昨年12月に登ったばかりの高尾山に再び登りました。

ケーブルは30度を越える斜面を登る


東海道自然歩道の一方の起点である高尾山は、東京都八王子市にある標高599mの山で、東京都心から近く、ことに最近「ミシュランガイド東京」の旅行ガイド版「ミシュラン・ボワイヤジェ・プラティック・ジャポン」で、高尾山が観光地として三つ星をしたことから、折からのパワーポイントブームや山ガール人気も手伝って人気が高まっているうえに、ある本に、「高尾山は標高僅か599mの低く小さい山にすぎないのに、植物の種類は極めて多く、1966年の調査では1508種を数え、その数は日本全国に生育する植物約5300種の約20%に当たり、イギリス全土をしのぐ数の植物が見られ、都市近郊にのこる奇跡の山といわれている」とあったのでさらに興味が増していたからです。
鮮やかな新緑のなかを、4号路から頂上、頂上から6号路を下りましたが、春の花が終わって端境期にあたるのか、花の数は期待ほどではありませんでした。

西方面を望む


滴る緑


高尾山名物、樹上に着生するセッコク(石斛)を探そうと苦労しながら6号路を降る途中で、遠くにかすかに見えるその白い花を見つけて足の疲れを忘れていました。

遠くに見えたセッコクの花

  

Posted by むかご at 10:41Comments(0)

2013年05月28日

向島百花園―今も残る江戸文化の風情 

柴又帝釈天に詣でた後、同じ京成線で、ほど近い向島百花園へ回りました。
もともと、仙台出身の骨董商が1805年(文化2年)開園し、360本もの梅の木を植えたことから、
当時亀戸(現・江東区)にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも「花屋敷」とも呼ばれていたものが、1809年(文化6年)頃より「百花園」と呼ばれるようになったものです。江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、当初梅園として営まれていたのが、その後園主や文人たちの構想で詩歌にゆかり深い草本類を多数栽培しました。

蜀山人の扁額がかかる門

1860年江戸を訪れた英国のプラントハンター、ロバート・フォーチュンも、一大庭園の向島として「われわれは何軒も茶屋や果樹園を訪ねた。そしてそこの設備や企画から考えて、春や夏のシーズン中、遊楽や保養を楽しみにやって来る、無数の江戸人に愛顧されているに違いない。われわれは到る所で、丁重に迎えられ、園主からお茶をもてなされた。」と書いています(幕末日本探訪記)



園内には多数の野草が植えられ、とくに秋の七草その他、秋の草花の美しさで知られてきました。また、池泉、園路、建物、30余基の石碑などを巧みに配した地割でも有名です。
戦災に会うなど、幾度か変転を経ながらも、園内の景観は今なお旧時の趣きを保っており、文人庭の遺構としても貴重なものとされています。江戸時代の花園として僅かに今日に遺るものであり、その景観、遺跡ともに重要であるとして、1978年(昭和53年)10月13日、国の史跡および名勝に指定されています。
向島百花園は、規模は大きいとはいえませんが、江戸の文人などの石碑が並べられ、都会の真ん中にいて、いまも江戸情緒の一端を感じることができます。65歳以上70円也で静かに憩える街中の公園です。

忽然と現れるスカイツリー

  

Posted by むかご at 16:05Comments(0)

2013年05月26日

寅さんの柴又を行く

東京のセレブ邸宅巡りの翌日は、電車に乗って少し庶民的な寅さんの町柴又を歩いてきました。
京成柴又駅を出るとおなじみ“ふーてんの寅さん”の像が迎えてくれます。

柴又駅前


帝釈天参道・右の石灯籠は渥美清の奉納


駅前からすぐに帝釈天への参道へ出ます。

門前の商店通りに草団子の“とらや”がありました。ここは“男はつらいよ“シリーズの第4作まで本当に映画のロケ場所となったそうで、いまでも映画に撮られたという階段が店の奥に残っていました。

初期の”男はつらいよ”の舞台にもなった”とらや”


撮影に使われたという階段だけがそのまま残る


一皿300円の草団子は可もなく不可もなしというところです。

柴又帝釈天は、初期の映画で笠智衆が住職として出ていた時の寺のイメージとは少し違って、思ったよりこじんまりとした感じでした。

柴又帝釈天


帝釈天の裏手へ回り少し歩くと、東京都選定歴史的建造物の山本亭、続く柴又公園には寅さん記念館・山田洋次ミュージアムなどがあります。

山田洋次ミュージアム


背後の江戸川には、今も残る矢切の渡しがあり、手漕ぎの渡し船でのんびり川を渡る客の姿が見えました。

矢切の渡し

渡し賃200で対岸に渡ると、野菊のこみちがあり伊藤左千夫の野菊の墓記念碑に続きます。
渡しの近くには歌謡曲“矢切の渡し”の歌碑もありました。映画も歌もすでに伝説となりかけて昭和もだんだん遠くなってゆきます。
  

Posted by むかご at 19:09Comments(0)

2013年05月25日

武相荘とセレブの邸宅を巡る 

60年も前、中学か高校のとき、将来なりたい人物像を問われて、生意気にも白洲次郎ごとき人物と書いたのを妙に覚えています。
最近白洲夫妻の伝記ドラマを見たり、白洲正子の著作を連続で読んだりしたことから、夫妻が戦中から晩年にかけて過ごした武相荘を一度訪れたいと思っていたところに、ちょうど武相荘、鳩山会館、椿山荘、旧武者小路実篤邸を巡るツアーが見つかったので、下賤の身の常としての覗き見趣味もあり、行ってきました。

音羽御殿とも呼ばれる鳩山会館は、いうまでもなく和夫、一郎、威一郎、さらには由紀夫、邦夫と続く鳩山一族が住んだ美しい洋館です。

鳩山会館全景


この洋館を建てたのは一郎で、大正13年(1924)当時を代表する建築家の岡田信一郎の設計によるものでした。平成7年に大規模改修が成り、政治家一族としての業績を紹介する記念館と集会機能をや兼ね備えた会館として公開されました。

鳩山和夫夫妻像


鳩山一郎像・由紀夫元総理像は建つか?


薔薇の庭を前に建つイギリス風の会館は、鳩など動物のモチーフにしたデザインが多く、いわゆるグロテスク風建築様式となっています。





家紋・尻合わせ三つ結び雁金



昼食は椿山荘でのフランス料理、予算的に本格的フルコースとまでは行きませんが、よい雰囲気の中で食事を楽しみました。
ここは、古くより椿が自生する景勝の地として知られ、江戸時代には久留里藩黒田氏の下屋敷だったものを、明治の元勲である山縣有朋が明治11年(1878)自分の屋敷として「椿山荘」と命名したのにはじまります。当時明治天皇・大正天皇をはじめ政財界の大物たちがしばしば訪れ、国政を動かす重要会議が開かれるなど政治の表舞台ともなりました。

椿山荘庭園


椿山荘庭園


今日も結婚式が


現在藤田観光の所有となり、敷地内にフォーシーズンズホテル椿山荘東京が営業しています。
一般公開されている庭園には、緑の中に水が流れ、史跡等が点在し、庭園の頂上には国の登録有形文化財の三重塔が建っています。

三重塔



白樺派の作家として、また「新しき村」創設で理想社会を目指す実践活動にも取り組み、40歳ころから絵筆をとり野菜や花に言葉を添えた味わいある作品で人々に親しまれた武者小路実篤は、調布市の仙川の近くに、屋敷を構え晩年を過ごします。

実篤公園


実篤公園


実篤公園内の旧居宅


いま、旧武者小路実篤邸は、武者小路記念館と市の実篤公園となっています。
実篤公園は約1500坪の園内に湧水を水源とした大小の池がめぐらされ、四季折々の草木が、散策の目を楽しませてくれます。

実篤記念館



太平洋戦争当初より敗戦を見抜いた白洲次郎は、郊外の鶴川に百姓家に夫妻で移り住み農業をはじめます。戦後吉田茂に乞われてGHQとの折衝にあたるなど活躍します。

武相荘入り口


武相荘建物


樺山伯爵の次女として生まれた妻正子は、早くより小林秀雄、青山二郎など錚々たる文化人と親交を結び、文学、美術、骨董、民芸品の世界に深く踏み込んで行きます。

次郎の愛車


次郎の農機具小屋内部


いま公開されている武相荘には、次郎の愛車や百姓道具などもありますが、屋内に展示されている衣裳、骨董、陶漆器などの品々は、いずれも正子の鋭い審美眼で選び抜かれたものばかりで、武相荘は、次郎没後13年間で独自の世界をつくりあげた正子の匂いに満ちていました。
  

Posted by むかご at 22:09Comments(0)

2013年05月20日

貴人の墓に咲くキンラン 


阿武山に咲くキンラン

大阪府北部と兵庫県の県境にある妙見山や剣尾山の近くまで続く北摂山系の最南端にあたる阿武山は別名美人山ともいわれ、高槻が生んだ詩人藤井竹外の漢詩にも詠まれています。
ここに建つのがJR京都線茨木から高槻間からもよく見える京都大学防災研究所阿武山観測所(旧地震観測所)です。
昭和9年(1934)地震観測所建設のためのトンネルを掘った時偶然発見されたのが、藤原鎌足の墓といわれる「貴人の墓」です。この墓は昭和58年8月阿武山古墳として国指定の史跡となっています。
平地に鎖の垣根がめぐらされただけの貴人の墓は、訪れる人影もなく、わずかに供えられた造花があるのみです。
この貴人の墓のすぐそばに、絶滅危惧種となっている珍しいキンラン(金蘭)が咲いていました。さすが貴人の墓に咲くだけあって高貴なたたずまいを見せるキンランでした。

貴人の墓

  

Posted by むかご at 21:17Comments(0)

2013年05月13日

変貌する阿倍野界隈 


存続が決まった美術館前で


慶沢園からハルカス

北のグランフロント大阪に対抗するかのように、高さ300m、日本一の超高層複合ビル「あべのハルカス」が全貌を現しました。
全体のグランドオープンは2014年ですが、今年6月13日には、旧近鉄百貨店の「あべのハルカス近鉄本店」タワー館がオ-プンします。
かつてはブルーシート家が並んだ天王寺公園もすっかり変わって、大阪南部の玄関口にふさわしい美しものになっています。
通天閣をはるか下に見はるかす新ビルの出現で、阿倍野界隈の風景がさらに大きく変わりそうです。

通天閣は低い

  

Posted by むかご at 17:52Comments(1)

2013年05月12日

フロントだけのグランフロント 




うめきた広場:広場が水に浮いているようなという安藤忠雄氏のデザイン



鳴り物入りでオープンしたグランフロント大阪、連休中はあまりの人出に恐れをなして、大阪へ出る機会があったのに断念していました。11日の土曜日、大阪へ出たからにはやはり見ておかないと、と行ってきました。相変わらずの人、人、人。おそれをなして、もっぱら外構や、緑化ゾーンを見て回りました。ということで、来場者数には加わりましたが、売り上げには全く寄与しない私のグランフロントとなりました。




けやき並木


北館テラスガーデン


北館西面

  

Posted by むかご at 16:36Comments(2)

2013年05月11日

ツツジ咲く万博公園 





ゴールデンウイーク前後の花といえばツツジです。
万博公園のツツジの丘では、ヒラドツツジやオオムラサキなど、紅や白色のツツジが満開です。
半月ほどもすれば、サツキ系統のツツジが変わって咲き始めます。


  

Posted by むかご at 09:47Comments(2)

2013年05月09日

群生するクマガイソウ 



環境省のレッドデーターブックで絶滅危惧種Ⅱ類に指定されている珍しいクマガイソウ(熊谷草)の群落が三重県の山中にあるというので行ってきました。
それは、大阪から車で約3時間、松阪市の山間部与原地区の杉林の中にありました。



人工林である杉林内の日光不足や鹿の害で絶滅の危機の瀕していたのを、林の所有者のMさんが、杉を適宜に伐採して光をいれ、鹿の防護柵を巡らせたして保護を続けた結果、自生クマガイソウの群落が見事に復活したといいます。
保護作業の年月をとつとつと語る老人の言葉からは、苦労よりも、みんなに見てもらえる喜びが滲み出ていました。
  

Posted by むかご at 18:02Comments(0)

2013年05月07日

花無き「みちのく花絵巻4日間」の余録 ⑤平泉中尊寺の巻

花無き「みちのく花絵巻4日間」の余録として①から④まで取り上げましたが、ツアーの行程表にも含まれてなかった平泉中尊寺こそは本当の余録でした。花見ツアーで募集してあまりにも花が少なかったので旅行会社が埋め合わせに入れてくれたのです。
世界遺産に登録されて一段と注目を浴びるようになった中尊寺は、曾遊の地でしたが、改めてみる金色堂に、奥州藤原氏が築いた黄金文化に思いをはせ、感銘を新たにしました。
五月雨ならぬ4月の雨に金色堂の新覆堂(さやどう)の屋根が黒く光っています。隣には移設された旧覆堂も残っています。

金色堂新覆堂


旧覆堂


芭蕉は奥の細道で、当時すでに少々いたんだ金色堂が覆堂に覆われていたらしくこのように記しています。
「兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉(とぼそ)風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時(しばらく)千歳の記念(かたみ)とはなれり」
と芭蕉は金色堂の内部の仏像や棺のこと詳しく描写していますが、実際には、同行し曾良によると、芭蕉と訪れた日は、金色堂を開けてもらおうにも堂守が不在で、仕方なく2人は名高い仏像などはどれも見ることなく中尊寺を後にしたことになっています。(曾良奥の細道随行日記)
かりに金色堂の内部を見なかったとしても、名句「五月雨の降り残してや光堂」の価値が下がるわけではありません。

芭蕉句碑


芭蕉像


拝観料金800円は安くはないにしても、芭蕉も見ることができなかった金色堂を、いつでも間近かに拝める現代人は恵まれているといえます。

関山中尊寺入り口

  

Posted by むかご at 16:56Comments(0)

2013年05月06日

花無き「みちのく花絵巻4日間」の余録 ⑤ みちのくの列車

花無きみちのくの花見の途中、偶然にもみちのくらしい二つの列車に遭遇しました。

近づく列車に一斉にシャッター


先頭に「走れメロス」の標識


一つは、五所川原市金木町(太宰治の生地)の芦野公園で出会ったストーブ列車で有名な津軽鉄道です。
ここの列車は冬の(真夏にもあるとか)ストーブ列車のほか、花見列車、風鈴列車、鈴虫列車などのイベント列車を運行することで知られています。丁度太宰治ゆかりの芦野公園の入り口で列車がホームに入ってくるところに出会いました。ホームで待っていた乗客はいっせいに近づく列車に向けてシャッターを切っています。先頭車両には“走れメロス”の標識がかかっていました。





もう一つは、新幹線秋田こまち号です。盛岡から大曲までは、田沢湖線を利用したミニ新幹線方式で運行されており、単線のため運行上いろいろな制約があり、スピードも全く新幹線らしくありません。おかげで国道と並行してはしる新幹線秋田こまちを、バスの車窓からばっちり(?)とカメラに収めることができました。
  

Posted by むかご at 14:40Comments(0)

2013年05月04日

花無き「みちのく花絵巻4日間」の余録 ④ モニュメントの巻

東北4日間の旅、お目当ての花は見えずとも、各地でいろいろなモニュメントに出会いました。
自然物であれ人工物であれ、どの観光地もその場所を象徴するモニュメントで観光客を呼んでいます。

第一日の宿は盛岡郊外の繋温泉。前9年の役で、源義家が本陣を置いたこの地で温泉が湧いているのを発見し愛馬の傷をこれで癒やしたという。義家が愛.馬を繋いだのが穴の開いたこの石という。


繋温泉の前に広がる御所湖(人造湖)に立つシオンの像。水没前の御所部落に紫苑がたくさん咲いていていたからという。


北上展勝地に立つ北上夜曲の歌碑。作詞者の自筆とか。


北上展勝地でみた「おに丸くん」意味は分からない。


寒風に立つ十和田湖「乙女の像」


盛岡市内に立つ啄木の歌碑


盛岡駅「もりおか」の字は啄木の筆跡

  

Posted by むかご at 11:11Comments(0)

2013年05月03日

花無き「みちのく花絵巻4日間」の余録③ 水の巻 

桜を訪ねてのみちのくの旅は、また水の旅でもありました。
各地の川は雪解け水を湛えて豊かにながれ、各地の公園は、花はなくともお濠や池のほとりは早春の気配を漂わせていました。


奥入瀬銚子大滝


奥入瀬に咲くフキノトウ


太宰治ゆかりの芦野公園


寒風の十和田湖


角館碑桧木内川桜堤



コブシ咲く弘前城のお濠center>


盛岡高松公園

  

Posted by むかご at 20:36Comments(0)

2013年05月02日

花無き「みちのく花絵巻4日間」の余録 ② 雪の巻

今冬の豪雪と4月の冷え込みで、すっかり花無き「みちのく花絵巻」でとなりましたが、そのかわり山はもちろん各地で深い雪に出会い、それはそれで思い出の旅となりました。

八甲田山雪の回廊


雪解け水の奥入瀬


春近し
  

Posted by むかご at 17:46Comments(0)

2013年05月01日

花無き「みちのく花絵巻4日間」の余録

4月24日~27日、みちのく花絵巻と名湯巡り4日間というツアーに参加しました。
事前の開花予想から満開と読んで日程を選んだつもりでしたが、東北地方は開花直前に冷え込みが続き、当初予想より10日ほども遅れてしまって、最後の一日を除いて殆ど蕾だけという花無しの花見ツアーとなりました。
それでも旅は旅、それなりの見どころを楽しめました。
空振りに終わった花見旅行の余録を取り上げます

①  山
天候にも恵まれなかった4日間のうち、盛岡から八甲田山の雪の回廊を通って、十和田湖から奥入瀬、岩木山麓の宿までの山に近づく第2日だけは幸運にも晴れて、山好きのむかごにはうれしい日となりました。

岩手山北東面(車窓)


岩手山西面(車窓)


盛岡高松公園から岩手山

八甲田山系



八甲田山


八甲田山と酸ケ湯温泉


岩木山北西面


岩木山西山麓から


満月岩木山

  

Posted by むかご at 21:00Comments(0)