オオサカジン

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Posted by オオサカジン運営事務局 at

2013年03月31日

カキオコの日生 



日生港を見下ろす、野生のミモザが満開
日生(岡山県備前市)のカキオコ(牡蠣のお好み焼き)が評判というので青春切符で行ってきました。
少豆島などへの航路の港となっている小さな港町ですが、いたるところにこのカキオコや、海鮮料理の店があって、観光がメインの町かとも思いましたが、聞いてみると必ずそうではなく、漁業が中心の町とのことでした。
駅を出ると右手正面の、“ひなせ”と山を刈り込んだ文字が見えます。港が見える丘公園となっている楯越山(126m)です。頂上の展望台まで約1㎞の遊歩道を登ると、日生港が眼下に、南には曾島、小豆島など瀬戸内の島々が眼前に広がります。

鹿久井島(27年3月に橋が完成し本土とつながる


頭島

一時間ほどの気持ちの良いウオーキングを終えて、魚市場を覗いたりしていると丁度お昼時。かねて聞いていた友人おすすめのカキオコの店Mに入りました。シーズンなら行列ができるというその店も、牡蠣のシーズンも最終樹ということですぐに入れたのはラッキーでした。
目の前で焼いてくれるふっくらとしたカキオコは、どちらかというと牡蠣が苦手という妻もこれは美味しいというほどで、さすが評判の店だけあって結構なものでした。

見事な牡蠣がどっさり

  

Posted by むかご at 16:16Comments(0)

2013年03月30日

難しい今年の開花予測 





例年桜の満開予想には悩むことが多いですが、今年の桜はことのほか難しいようです。
開花予想から推測して、花見には遅いだろうといいながらあるグループで設定した29日の八幡市背割堤は、遅いどころかまだ5分咲きといったところです。
おかげで人出も少なくてゆっくり楽しむことができました。




例年ですと、土手にセイヨウカラシナや、キンポウゲなどの黄色い花が咲いていて彩を添えているのですが、花見客へのサービスのつもりかすっかり刈られていて、余計なことをしない方がよいのにと思ったりしました。
  

Posted by むかご at 21:49Comments(0)

2013年03月29日

開花宣言はあったが…遅い今年の桜 


川崎橋から


花は早いが行き交う観光船


桜・桃をこき混ぜて:旧藤田別邸

大阪で開花宣言があったのが例年より早い3月21日。開花から1週間後が満開のはずと28日で大川のほとりのレストランを予約したのはよかったのですが、その日の新聞の花便りでは大阪城はまだ“咲き始め”とのこと。まあいいやと小雨の中を花見にでかけました。
久し振りの本格的なフランス料理でゆっくり時間をとったあと、大川端の散策です。
行ってみると5分咲きくらいで、人ごみもなく、なんとか花見気分を味わうことができました。
翌日新聞を見ると一日で咲き始めが5分咲きに変わっていました。新聞がいい加減なのか、それほど今年の桜が気まぐれなのか、難しい今年の花見です。

右岸の方が花は早い


上流から振り返る大阪城

  

Posted by むかご at 20:59Comments(2)

2013年03月28日

青春18きっぷで東海・美濃の三都巡り

3月27日、青春18きっぷで、東海の3つの町、岡崎、熱田、大垣を訪れました。
開花宣言から1週間ほど経過し、桜満開と予想していたのにその後の冷え込みで開花が遅れていたのは少し残念でしたが、ダイヤの便もよくて時刻表を見ることもなく効率的な旅となりました。





1)岡崎と岡崎城
三都巡りは、10時半、予約していたボランティアガイドさんの案内で岡崎城を中心とする岡崎公園散策からはじまります。岡崎城と岡崎は戦国・江戸と時代をまたいで、徳川家康の出生地であり三河武士のふるさととして、わずか五万石の石高ながら、特別の重みをもって扱われてきました。
城は、菅生川と矢作川の合流地点にある龍頭山という丘陵を利用して造られおり、龍頭山城とも龍城たつき)ともよばれ、守るに易く、攻めるに難しい難攻不落の平城となっています。
東海地方の城では3番目に数えられる規模であった岡崎城も、1873年(明治6年)の廃城令によって天守閣以下の建物はすべて廃却されましたが、昭和34年、コンクリート製ながらも、残っていたかつての写真通り外観で再建されました。



城の周囲が公園として整備されたのは明治初年と古く、公園に立つ石碑は単に公園とだけ刻まれているのは、全国的にも公園は極めて珍しかったので、敢えて岡崎を名乗らなくても公園といえば岡崎の公園と知られていたからだそうです。



船着場


城を囲む堀は龍城堀と呼ばれ矢作川の支流の管生川から水を引いています。この地の古謡で江戸小唄にもなった“五万石でも岡崎さまは お城下まで船が着く・・・”と謡われた船着き場の跡が残っています。

野面積の石垣


三方が原の敗戦を自戒するために描かせたというしかめ面を寫した家康しかみ像


家康産湯の跡


家康の胞衣塚


時計塔は定刻になると家康のからくり人形が能を舞う


「人の一生は重き荷を負て長き道を行くがごとし」家康遺訓が刻まれている

残された石垣、堀など遺構を含み周辺は岡崎公園として整備され、再建された天守などとともに、市民の憩いの場になっています。公園内には、岡崎城で生まれて、ついには天下をとった家康ゆかりの史跡、記念碑、像などが多数あり、まさに家康オンパレードです。

2)熱田神宮
昨年は古事記編纂1300年、古事記にゆかり深い熱田神宮は、以前から一度はお参りすべきお宮さんとして残っていました。


景行天皇43年創建とされ、神社では、平成25年(2013年)は、もと神剣である天叢雲剣、のちの草薙神剣をこの神社に祀ってより、1900年の節目の年を迎えるとしています。
主神は熱田大神、祭神は天照大神、素戔嗚.尊、日本武尊、宮簀姫尊、建稲種尊で、三種の神器ひとつ草薙剣(天叢雲剣)を祀る神社としても知られています。
1893年(明治26年)までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式だったといわれる社殿は、今では伊勢神宮と同じ神明造ですが、さすがに立派なものです。

本殿



信長塀


名古屋最古の石橋二十五兆丁橋


古くから、皇室や時の将軍など権力者の尊崇をうけ境内には、信長寄進の信長柄や尊氏寄進といわれる名古屋最古の石橋の二十五丁橋など歴史的な遺産が多数残されています。

樹齢千年を超えるという大楠


3)大垣と大垣城





日本の真ん中を自称する大垣は、関ヶ原の合戦で西軍石田三成の本拠地となった大垣城を中心に水門川が巡り、いたるところに湧き出る自噴井があり、かつて水運で賑わった水の都の風情が今も/漂っています。
水門川の流れを外堀に利用して作られた大垣城は、いくつかの変遷を経て、小規模ながら四重四階建ての総塗の優美な城として、戦前は国宝も指定されても昭和20年戦災で焼失し、昭和34年コンクリート製で再建されています。





市内各所にある自噴井

お城の外堀にも使われた水門側沿いには遊歩道が整備され、沿道には桜並木が連なります。川には舟下りの船や、珍しいたらい舟なども運行され、住吉燈台や船町港跡などがあって往時の水運の様子を今にうかがわせています。
あまり知られていませんが、松尾芭蕉は、元禄2年(1689)の秋、約5か月の「奥の細道」の旅を終えてここ大垣で終えました。そのおり芭蕉は「蛤のふたみに別く秋そ」と詠んで、水門川の船町港から桑名へ下りました。このことからこの地に芭蕉の「奥の細道の結びの地」の記念碑や記念館があります。


平成24年12月5日、両陛下がこの「奥の細道結びの地記念館」に行幸啓された際、皇后陛下がお土産として侍従を通じてお買い上げになったものと同じという羊羹「小豆やっこ」を1本買い求めて帰りました。
  

Posted by むかご at 21:50Comments(0)

2013年03月26日

高取城址 山頂に築かれた典型的な山城 


頂上の本丸跡から大峰山系を望む





近鉄吉野線壺坂駅から、高取城址に登りました。駅から南東への一本道を、道端の草木を観察しながら上ること約3時間、眺望が開けて、本丸跡に至ります。
高取城は高取山(583.9m)山頂に築かれた典型的な山城で、元弘2年(1332年)、南朝方に属した高取の豪族越智八郎が最初に築城したといわれます。その後何代かの城主が入城し、天正13年(1583年)に郡山城主となった豊臣秀長の命を受け、本多氏が入城する際、石塁を築き土塀を廻らし、本丸に大小の天守閣を起こして多門を連ね、幾多の櫓楼を配して、山城に平城の築城技術の長所を採用し、要害堅固と美観を兼ねた近世的城郭として整備されました。
本多氏が絶えた後、譜代大名の植村家政が寛永17年(1640年)に入城。明治2年(1869年)の版籍奉還まで、14代にわたり居城しましたが、版籍奉還により明治政府の管轄になり、明治6年(1873年)に廃城となりました。

杉林の中石垣が続く



大手門跡



太鼓櫓跡



本丸手前の石垣

山頂を中心に、急峻な地形を巧みに利用して築かれており、とくに麓の城下町から本丸までの高低差(比高)は390mと大きく、城門から何層もの門構えや石塁を抜けて本丸に至る道は、難攻不落の構えを実感させてくれます。現在、建物はことごとくなくなっていますが、石垣等は旧規模のまま存在して当時の偉容をうかがわせます。
今でこそ建物を失った城跡は、周囲の木々にさえぎられて、麓からは見えませんが、天守を中心に何層もの建物が重なった往時の高取城は、その威容を四囲に誇っていたに違いありません。
本丸跡からは東に高見山、南に大峰山系をなど素晴らしい眺望です。

高見山遠望


麓からの高い比高は、防御に適しているにしても、城下町との連携では不便であったはずで、平時には藩主や家臣が城を降りて城下町で暮らすなど、城としては特異な形となっていたというのもうなずけます。そのおかげで現在この立派な城跡が、訪れる人も数多くはなく、静かな雰囲気で巡ることができるのはうれしいことです。

  

Posted by むかご at 14:59Comments(0)

2013年03月25日

春直前:淡路島





暖かい日が続き、各地から早い花便りが届いたかと思えば、真冬に戻ったような寒さもあります。
淡路島の花桟敷では菜の花が満開、鳴門海峡では名物の渦巻きが観察されて、春はまさにすぐそこです。す。  

Posted by むかご at 18:47Comments(0)

2013年03月23日

町家の雛祭り:奈良県高取町 


展示は門口にも

雛巡りのメイン会場の天の川通り。薬種商が立ち並ぶ




高取城へ登ろうと近鉄壺坂駅に降りると、何やら異様な人出、聞いてみると今ちょうど町を挙げての「町家の雛祭りが」行われているとのこと。
ラッキーと思って、城へ向かう同じ道のお雛様の展示を見ながら上りました。



見上げれば2階にも

通りからでも見られるように飾られたお雛さまは、さほど古い由緒のあるものとも見えませんが、娘、孫などために購入したいきさつや、七五三など女児のお祭り時の晴れ着などなどが添えられていて、親しみやすいものでした。
  

Posted by むかご at 16:48Comments(0)

2013年03月15日

7分咲きは7分散り?大阪城梅林 



寒さ続きで各地の梅便りもずいぶん遅くなっていますが、さすが3月15日ともあれば、大阪城梅林の新聞情報も7分咲きというので出かけました。
行ってみると、すでに散り果てた梅が目立ち、遅咲きだけが満開といった状況で、7分咲きというより、
7分散りといった方がぴったりです。
大阪市が営業しているわけでもないのに、不当?表示までして客寄せしをしているのは理解に苦しむところです。
いずれにせよ、梅は満開や散り初めよりは、ほころび始めの方がずっと味わいがあることがよくわかりました。


相変わらずのアングルです。



  

Posted by むかご at 17:26Comments(0)

2013年03月11日

淡路の国一の宮:伊弉諾神宮 




淡路島の伊弉諾神宮へ参詣しました。
平成24年(2012)は、古事記編纂1300年として、ゆかりある各地で記念行事が行われました。
淡路島の伊弉諾神宮もその一つです。
古事記・日本書紀の国生み神話と称される部分で、神代七代の最後に登場する伊弉諾(いざなぎ)、伊弉再(いざなみ)の男女二柱は、最初に於能碁呂(おのころ)島に降り立ち、ここからはじめに淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡島および大倭豊秋津島(本州)の大八島の国を生み出します。
伊弉諾大神は国造りの大業を終えてのち、最初に生みだした淡路島の多賀の地に「幽宮」(かくりのみや)を構えて余生を過ごします。その住居跡に陵が営まれ、聖地として最古の神社が創始されたのがこの神宮の起源といいます。
つまり当神宮は皇室の祖神である天照御大神の両親にあたる伊弉諾、伊弉再を祭神とする格式高い神社で、皇室とのゆかりも深く、歴代の天皇、皇族が参拝されています。
ところで、伊弉諾は当地で生を全うされたにしても、古事記では妻の伊弉再は火の神を生んだため大火傷をして死に、比婆山に葬られます。伊弉諾は、妻の伊弉再を呼び戻そうと黄泉の国まで追いかけていきますが、見てはいけない醜い伊弉再の姿を見てしまい、雷神に追われながら、ほうほうの態でかろうじて逃げ帰ります。
この神社は、伊弉諾、伊弉再の二柱をともに祭神としているので、社務所の人に伊弉再は確か比婆山に葬られているはずなのに、どうして一緒に祀られているのですかと恐る恐るたずねましたら、神職らしき人が、不機嫌そうに、この二柱は全国どこでも一緒に祀られている、当社はその元締めだから何も問題はないとの返事でした。

拝殿



本殿


巨木”夫婦大楠

  

Posted by むかご at 18:14Comments(0)

2013年03月09日

小さくはなかった小倉城  



新幹線利用九州4日間の温泉巡りの出発点は小倉。別府へ向かう高速道から小倉城が見えます。バスガイドさんが、”ビルに囲まれた小っちゃい城が小倉城です。これなら自分のおうちの方が大きいと思う人は手を挙げて“というと、何人かの乗客が手をあげました。
帰途、再び小倉駅に戻り、観光案内所で、新幹線待ちの1時間たらずでどこか行くところはないかとたずねると、小倉城なら片道15分ほどで行けるとのこと。


1959年に再建されたという小倉城は、慶長2年(1602)細川忠興が築城したもので、海岸線をふくんだ約8㎞の外堀など我が国屈指の規模でした。近くで見る小倉城は堂々たる規模で、バスからみたビルの谷間の城と同じものとはとても思えませんでした。


駅のすぐ南に立つのは小倉祇園太鼓像です。細川忠興が小倉入りして、元和3年(1617)建立した祇園社が八坂神社のはじまりで、以来400年近く民衆の祭りとしてにぎわってきました。小倉祇園は「太鼓の祇園」として、小説や映画で知られる富島松五郎伝の「無法松」と共に、全国的に知られています
  

Posted by むかご at 09:12Comments(0)

2013年03月07日

完全かけ流し雲仙温泉“いわき旅館” 





ほっこり九州温泉つづり4日間と称するツアーの最終の宿は雲仙でした。
雲仙岳とは、普賢岳をはじめとする八つの山を総称してよばれるもので、平成2年から平成7年にかけての火山活動で形成され平成新山(1483m)が、従来の主峰普賢岳(1359m)に代わって長崎県の最高峰になっています。大火砕流で多くの犠牲者をだした普賢岳は、バスからの垣間見で終わったのは残念でしたが、歴史ある雲仙温泉は流石のものでした。
宿は雲仙地獄にほど近い”いわき旅館“。割増料金を払うと2軒の別の宿があるというのを、あえてベースプランで選んだこの宿は、完全かけ流し、加水なし、加温なし、敷地内源泉など6項目で長崎県では唯一の最高点を獲得したとかで、宿泊設備はさほどではなくても、温泉としては思いがけぬ大当たりとなりました。
短い滞在時間を利用して、宿近くのいくつかの温泉地獄を巡りましたが、さすがの迫力です。人気のパワースポットという看板につられて温泉神社の脇にある“相生柿“というのを見にゆきましたが、こちらは少々パワー不足と見ました。


  

Posted by むかご at 13:00Comments(0)

2013年03月06日

佐世保と九十九島 



ほっこり九州4日間ツアーの第3日は、柳川を経て、西九州自動車道を佐世保へ向かいます。
佐世保港には、海上自衛隊と米国海軍の基地が並び、何隻かの軍艦が停泊していて、こころなしか尖閣列島で高まる緊張感が漂っています。


遊覧船が発着する西海パールリゾート

さらに西に進むと、九十九島への遊覧船が発着する西海パールリゾートがあります。ここでの昼食はバスガイドお勧めの”佐世保バーガー“です。最近はやりのB級グルメでは、何時もがっかりでしたので、まったく期待せずに食べましたが、予期に反してこれは本物でした。なんでも戦後すぐ米海軍によってもたらされたアメリカ文化の象徴ともいえるハンバーガーが、日本風にアレンジされてこの地で進化し、いち早く佐世保にハンバーガーという食文化が定着していったそうです。
協会が認定しているという佐世保バーガーの店は、いずれも独自のレシピに工夫をこらして競っているといいます。

展海峰から佐世保方向


展海峰から九十九島

九十九島の眺望は少し離れた高台にある展海峰からです。右の佐世保港か弓張岳を経て、九十九島の島々が眼下に広がります。

田中穂積像

美しい景色を背に立つ軍服姿の像は、唱歌“美しき天然”を作曲した田中穂積の記念の碑です。佐世保鎮守府の軍楽長を勤めた田中は、のち市立佐世保女学校に奉職、九十九島の美しさを音楽に乗せて伝えたいと、1902年(明治35年)折よく手に入れた武島羽衣の詩に曲をつけました。
  空にさえずる 鳥の声
  峯より落つる 滝の音
  大波小波 とうとうと
  響き絶やせぬ 海の音
  聞けや人々 面白き
  この天然の 音楽を
  調べ自在に 弾きたもう
  神の御手(オンテ)の 尊しや
今ではちんどん屋やサーカスの音楽として知られている名曲”天然の美“は、九十九島の絶景が生み出したものだったのです。
  

Posted by むかご at 16:37Comments(0)

2013年03月05日

水郷柳川 

水郷川下り、ひな祭りを飾る“さげもん”、北原白秋の生家、観光ポスターで見る柳川が含まれていたことが、今度のツアーに参加した一つの理由でした。
滞在時間1時間では、歴史と文化のまち柳川を落ち着いて感じることができなかったのは残念ですが、精いっぱい、目を凝らし、質問をし、町の風に触れ、町の香りを味わったことでした。



舟下り発着場にも”さげもん”

柳川の雛まつりに飾られるのが“さげもん”といわれる吊るし飾りです。昔から娘の初節句にお母さんやおばあちゃんが作って祝うという“さげもん”は、大きな鞠を真ん中にして、古布などで縫った縁起小物を7つの糸に7個合計51個を吊り下げます。3月3日を中心に柳川のまちは雛祭り・さげもん祭りで彩られます。







ポスターで知られる柳川の舟下りは、410年前柳川城築城のおりに、城下町を形成するために人工的につくられた堀を“どんこ”という手漕ぎの舟で下るものです。
こたつに足を入れて、船頭の語りと歌を聞きながらの30分の舟下りは千円、岸から下る舟を見る方が情緒に富むかもと思いながらも、乗らないわけにもゆかない感じの舟下りです。


船下りの終点は、旧柳川藩主・立花家の別邸だった「御花」。江戸時代中期、この辺りは「御花畠」といわれていたことから、いまでは柳川の人々は親しみを込めて「御花」と呼ぶようになり、公園や資料館、料亭などとして利用されています。
  

Posted by むかご at 21:16Comments(0)

2013年03月04日

やまなみハイウエイ→久住→瀬の本高原→大観峰→原鶴温泉

別府・由布院から阿蘇方面へ向かう通称やまなみハイウエイは、標高7~800mの地点を九重、飯田高原などの景勝地をぬって走る人気の観光道路です。



ところどころに雪が残る山を見ながら行くと、広大な景色が広がる瀬の本高原です。天気がよければ草原の彼方に南に阿蘇五岳、きたに九重連山を望むことができ、熊本県「緑の百選」第1位に選ばれています瀬の本高原からほどなくのところに有名な大観峰があります。



熊本県阿蘇市にある標高935.9mの山で、阿蘇北外輪山の最高峰であり、カルデラ盆地の阿蘇谷や阿蘇五岳をはじめ、九重連山を一望することができます。あいにく阿蘇五岳は霞に煙って、中岳の噴煙は僅かに見えるものの、写真には出来そうもありません。


反対側を振り返ると、外輪山の急な落ち込みが一望され、改めてカルデラの巨大さを実感させられます。

蜂の巣城の抵抗で有名となった松原ダムや、杖立温泉をへて筑後川沿いに下りその日の宿は知る人しか知らない原鶴温泉です。
江戸時代は街道筋の宿場に近く湯治場だったとういう原鶴温泉は、筑後川とその放水(遊水)路にはさまれた狭い中州にある温泉で、23軒の旅館・ホテルがありますが、夏は筑後川で鵜飼があるほかは取り立てて何もないような温泉です。

原鶴温泉の日の出(筑後川はここで右側の本流と洪水用の左の遊水路に分かれる)

同行のツーア客の中に、ここが新婚旅行の宿だったという老夫婦がいました。変哲もないこの温泉も、その人夫婦にとっては、どこにもまして想い出深かく忘れられない場所になっているのでしょう。
  

Posted by むかご at 09:01Comments(0)

2013年03月03日

由布院早春



別府からバスで約一時間、湯布院があります。ふた昔以上も前、上原謙と高峰三枝子のフルムーンのポスターで一躍有名になった温泉地です。複雑な町村合併のいきさつもあって、町名とインターチェンジは「湯布院」駅名と温泉名は「由布院」と書かれるそうですが、実際には「湯布院温泉」という温泉地は存在しないといいます。



由布岳の山麓にあるさほど大きくない池に「金竜湖」という名がついています。池に流れ込む温泉水で、冬の池面に白い湯気が立ち上り風情ある景色を現出しています。









映画祭が始まった30年ほど前は、落ち着いた文化的雰囲気もあった由布院ですが、近年の人気観光地化によって、街中はいかにも観光地らしい施設や土産物屋が軒を並べています。それでも一歩町中をはずれて歩くと静かなたたずまいの中に、昔ながらの温泉旅館が点在します。




湯布院の町を外れた土産物屋からは、ガスが晴れた由布岳の全景が望まれました。大分県由布市にある由布岳は標高1,583mの活火山で、2つのピークからなる円錐形をしていることから、豊後富士ともよばれています。
“観光地”由布院の喧騒から離れて眺める由布岳の山裾には、あちこちに温泉の白い湯けむりが上がって、やはりここは温泉地だと思い直していました。
  

Posted by むかご at 08:55Comments(0)

2013年03月02日

湯の町別府 

10なん年ぶりかの別府は、韓国語とハングル文字であふれ、あたかも外国に来たような錯覚を覚えました。国境を越えるとはいうものの、アクセスの良さからは、隣町に出かけるくらいの感覚なのかもしれません。


別府市の山手、湯の花温泉の近くにある湯の花小屋は、温泉の沈殿物などからではなく、茅葺小屋に青粘土を敷いて、内部で噴気をまんべんなく噴出させて明礬の結晶を作り出すという民族技術で、国の重要無形文化財に指定されています。一風変わった景色です。




建物内部

別府の町を散歩していると、古風な建物の公衆温泉が目につきました。竹瓦温泉です。
明治12年(1879)創設で、当初建築されたものは竹屋根葺きの浴場でその後改築されたものが瓦葺きであったため、竹瓦温泉の名称がついたと伝えられています。
現在の建物は昭和13年(1938)に建設されたもので正面は唐破風造の豪華な屋根をもつ温泉となっており、その外観は別府温泉のシンボル的な存在となっています。天井の高いロビーは昭和初期のイメージを残しており、湯上りにくつろげるスペースとなっています。
入浴料は驚きの百円、砂風呂は少し値がはって千円、時間が許せばぜひ体験したかった場所でした。



道路の真ん中にきれいなデザインのマンホールの蓋があり、オオムラサキも文字がありました。別府市と国蝶のオオムラサキはどんな関係か帰って調べてみたら、オオムラサキは蝶ではなく、別府市の花でツツジの名前でした。


宿泊は有名な亀の井ホテル。町には亀の井バスというのも走っています。
ホテルもバス会社も、別府観光の父・別府の恩人としていまも慕われている油屋熊八が創始したもので、
定期観光バスや女性バスガイドなども彼の発想によるものとされています。別府駅前にある奇抜な姿の熊八のブロンズ像には、「山は富士 海はせとうち 湯は別府」と湯の町別府を宣伝した言葉が刻まれています。



別府湾の岸壁から南の方に目を凝らすと、はるかかなたに製鉄所らしいものが見えました、新日鉄住金の大分製鉄所です。
2月3日、別大マラソンで、デッドヒートを制した川内優輝選手が走ったのも、この海岸かなとおもいながら眺めていました。 
  

Posted by むかご at 13:11Comments(0)