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2020年01月23日

二条駅界隈に平安宮遺跡を訪ねる

1月22日、JR二条駅から出発して、界隈の平安宮跡を中心とする歴史遺跡を巡りました。
794年桓武天皇によって都が長岡京から平安京に遷都されます。平安京は、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城で、都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京・右京(内裏側からみての左右になる)を置くという平面計画は基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の洛陽城、長安城に倣うものでした。
平安京にはその宮城(大内裏)として平安宮が都の北部中央に造営された。大内裏には天皇の御所として内裏、即位礼など国家行事を挙行する八省院(朝堂院)、大規模な饗宴が行われた豊楽院、神事を行う中和院や仏事に関わる真言院、その他二官八省の政庁、衛府などが並び立ていました。
京域が広すぎたためか、規則正しく配置された条坊が人家で埋まることはついになく、特に右京の南方の地では桂川の形作る湿地帯にあたるため9世紀に入っても宅地化が進まず、律令制がほとんど形骸化した10世紀には荒廃して本来京内では禁じられている農地へと転用されることすらありました。そのため貴族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に設けられ、藤原氏のような上流貴族の宅地が左京北部へ集中する一方、貧しい人々は京内南東部に密集して住み、さらには平安京の東限を越えて鴨川の川べりに住み始めます。加えて鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて、市街地がさらに東に広げられる傾向が生じました。980年(天元3年)には朱雀大路の南端にある羅城門(羅生門)が倒壊し、以後再建されることはなく、、こうして次第に平安京の本来の範囲より東に偏った中世・近世の京都の街が形作られ、京域を示す「洛中」という言葉も実質的に左京を指して用いられるようになります。
元々大内裏やそれに関連する建物があった場所には、現在住宅やビルなどが立ち並んでいて、その遺跡は街中に部分的に点在していて、平城京など奈良や飛鳥の都のように全体像を想像することは難しくなっています。ただそれゆえに平安遷都以来明治の東京への首都移転までの”都”の歴史的変遷を改めて感じさせられるところでもありました。
二条駅界隈に平安宮遺跡を訪ねる
神泉苑:平安遷都の際、大内裏の側に造くられた苑地で、当時は広大であったが二条城築城の際、城内に取り込められて約10%に縮小された(入場無料)

二条駅界隈に平安宮遺跡を訪ねる
1603年徳川家康が上洛の際の宿舎として建てた(入場1030円)

二条駅界隈に平安宮遺跡を訪ねる
源三位頼政が妖怪「鵺」を退治した時矢じりを洗った「鵺池跡」と碑

二条駅界隈に平安宮遺跡を訪ねる
平安宮内裏承明門跡碑

二条駅界隈に平安宮遺跡を訪ねる
平安宮内裏回廊跡

二条駅界隈に平安宮遺跡を訪ねる
大極殿跡碑

二条駅界隈に平安宮遺跡を訪ねる
平安宮造酒司(みきのつかさ)跡:酒や巣を醸造する役所

二条駅界隈に平安宮遺跡を訪ねる
平安宮豊楽(ぶらく)殿跡:国家的饗宴に使われた場所」

二条駅界隈に平安宮遺跡を訪ねる
豊楽殿に隣接する清暑堂跡:天皇が豊楽殿に出御される際の控えの場所

二条駅界隈に平安宮遺跡を訪ねる
平安京の中心通りの朱雀大路の北端にあった朱雀門跡碑:当時の朱雀大路は幅84mもあった




Posted by むかご at 12:02│Comments(0)
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