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Posted by オオサカジン運営事務局 at

2021年06月08日

大台ケ原にシロヤシオを訪ねる

友人から大台ケ原のシロヤシオ・白八汐(ツツジ科)が満開との情報があり、連れだって見に行ってきました。
シロヤシオは別名五葉躑躅ともいわれ、愛子内親王のお印で知られており、以前からぜひ見たい花の一つでした。
山頂駐車場から日出ケ岳山麓から正木平、尾鷲口経由で駐車場に戻るコースをとりましたが、コースはさながらシロヤシオの花の回廊となっていました。好天に恵まれて眼下に熊野灘を眺めつつたどる花の回廊、久しぶりの大台ケ原は大満足の一日でした。



















  

Posted by むかご at 14:24Comments(3)

2021年01月07日

2021年01月03日

日の出

正月二日、高槻駅前ツインビルの間から登る太陽です。

  

Posted by むかご at 05:35Comments(0)

2020年04月18日

元気にやっています

新形コロナウイルス問題大変ですね。
ステイホームが続いて、フラストレーションが昂じ、顰蹙覚悟で、マスク着用して、近場の若山神社から水無瀬渓谷を歩いてきました。
一昨年の地震、台風で荒れてしまった林道に驚きながらも、新緑のなか清流の瀬音にすっかりリフレッシュして帰りました。

ブログの休載が続き、心配して安否を尋ねる電話をいただいたりしましたので、ご無沙汰を詫びる意味で久しぶりに投稿させて頂きました。

若山神社・背後の山は大阪府天然記念物のツブラジイ森



若山神社より三川合流地点を望む


水無瀬川の清流と山吹の花



まだまだ続きそうなコロナ騒動、くれぐれも御身お大事に。
  

Posted by むかご at 10:49Comments(0)

2020年01月28日

旧平安宮の名残りを残す「神泉苑」


願いを心に渡れば叶うという法成橋


昨日の記事、二条駅界隈に平安宮遺跡を訪ねるにも取り上げた神泉苑ですが、旧平安宮の諸施設のほとんどがその後の歴史的変遷で地中にうずもれてしまっている中で、当時の平安宮の片鱗が今も地上の形となって存在しているという意味では興味のある場所といえます。
神泉苑は、延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑でした。もともとここにあった古京都湖(古山城湖)の名残の池沢を庭園に整備したものと考えられ、当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ、池を中心とした大庭園だったと伝わります。
天長元年(824)弘法大師空海が祈雨修法の際、勧請された善女龍王社を祀り、池にかかる 法成橋は、空海が法力を成就させたことから『一願成就』の橋としても知られます。東寺真言宗の寺院があり、本尊は聖観音・不動明王・弘法大師です。
境内に「恵方社」として「大歳神:歳徳神(としとくじん)」を祀り、毎年大晦日の晩に恵方に祠の向きを変える「大歳神」があり、日本国内で毎年向きを変えるは唯一ここだけに見られる祀り方であると伝割ります。
史料に初めてその名が見られるのは『日本紀略』の記事であり、延暦19年7月19日(800年8月12日)、桓武天皇が行幸したという内容があります。季節を問わずまたどんな日照りの年にも涸れることのない神泉苑の池には竜神(善女竜王)が住むといわれます。
貞観5年(863年)に都に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われ、貞観11年(869年)には神泉苑の南端(現在の八坂神社三条御供社の位置)に66本(当時の律令制度の国の数)の鉾を立てて祇園社から神輿を出したのが、現在の祇園祭の元になったとも言われています。
中世以降は荒廃し、慶長8年(1603年)、徳川家康が二条城を造営した際には神泉苑の敷地の大部分が城内に取り込まれて著しく規模を縮小し、神泉苑の水源も城の堀の水源の一つとして奪われました。
現在の神泉苑は、龍頭鷁首の舟を浮かべた法成就池中心に本堂、善女竜王社、辯財天社、恵方社などが配置され、義経と静御前があった場所との伝説もあって、恋愛のパワースポットとして人気が出ているといいます。

観音様を祀る本堂


法成橋のたもとの鶴石、亀石


竜頭鷁首の舟が浮かぶ池、右に善女竜王社


池の東部から善女竜王社

二条城南の道路一本隔てた所にあり、入苑自由(無料)、おすすめスポットです。







  

Posted by むかご at 09:39Comments(0)

2020年01月26日

紅梅咲く大阪天満宮で鷽替え神事


1月25日、暖冬で早くも紅梅がほころび始めた天満宮で「鷽替え神事」が行われました。

天満宮南門

道真公は「学問、出世の神様」として有名であると同時に「正直の神様」、無実の罪を清める「雪冤の神様」としても有名で、嘘の罪滅ぼしを天神様へ祈願する信仰がありました。一方で菅公が愛し、神社の紋にもなっている梅の木と縁の深い鳥で鷽鳥(うそどり)という実在の鳥が存在します。
鳥の名が「嘘」に通じることから、過去一年間に自分のついた嘘を鷽鳥に託し、初天神で罪滅ぼしを行おうとうそ替え神事が生まれました。
鷽鳥御守が入った封筒を受け取り、本殿前の四方にしめ縄が張られた結界の中へ進むと、神職の合図で、参加者同士で「替えましょ。替えましょ。嘘を誠に替えましょう」と声を発しながら鷽鳥御守の交換が始まります。
大勢の参加者がグルグルと回りながら封筒を交換します。封筒を人々と互いに交換することによって、嘘をまことに替えてしまうという神事です。

うそ替え神事に先立って餅撒き(餅の代用にボールを用い中に景品名が入っている)

かなり長い時間廻りながらの交換の後、神職の合図で初めて封筒を開くと、中に金・銀・土・木など当たりの文字があれば、一年間のさらなる幸福が約束され、それぞれの鷽鳥のお守りが授けられます。当たらない人でも、開いた封筒の内側が鷽鳥のお守りとなっているそうです。

神事に参加する人の列


うそ替えのため人払いされた本殿前の結界


札を交換する人々



交換される鷽鳥お守り封筒


授与される鷽鳥のお守り(中央)


見知らぬ人同士がお互いに声を掛けながらうそ替えの封筒を交換し続ける神事は、見物するだけでもほほえましく楽しいものでした。

参考:数年前雪の金剛山山頂で撮ったウソ(鷽:アトリ科ウソ属)です。名に似合わずとてもきれいな鳥です。


鷽替え神事の動画を、インスタグラム”mukago8897”でアップしています








  

Posted by むかご at 15:21Comments(0)

2020年01月23日

二条駅界隈に平安宮遺跡を訪ねる

1月22日、JR二条駅から出発して、界隈の平安宮跡を中心とする歴史遺跡を巡りました。
794年桓武天皇によって都が長岡京から平安京に遷都されます。平安京は、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城で、都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京・右京(内裏側からみての左右になる)を置くという平面計画は基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の洛陽城、長安城に倣うものでした。
平安京にはその宮城(大内裏)として平安宮が都の北部中央に造営された。大内裏には天皇の御所として内裏、即位礼など国家行事を挙行する八省院(朝堂院)、大規模な饗宴が行われた豊楽院、神事を行う中和院や仏事に関わる真言院、その他二官八省の政庁、衛府などが並び立ていました。
京域が広すぎたためか、規則正しく配置された条坊が人家で埋まることはついになく、特に右京の南方の地では桂川の形作る湿地帯にあたるため9世紀に入っても宅地化が進まず、律令制がほとんど形骸化した10世紀には荒廃して本来京内では禁じられている農地へと転用されることすらありました。そのため貴族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に設けられ、藤原氏のような上流貴族の宅地が左京北部へ集中する一方、貧しい人々は京内南東部に密集して住み、さらには平安京の東限を越えて鴨川の川べりに住み始めます。加えて鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて、市街地がさらに東に広げられる傾向が生じました。980年(天元3年)には朱雀大路の南端にある羅城門(羅生門)が倒壊し、以後再建されることはなく、、こうして次第に平安京の本来の範囲より東に偏った中世・近世の京都の街が形作られ、京域を示す「洛中」という言葉も実質的に左京を指して用いられるようになります。
元々大内裏やそれに関連する建物があった場所には、現在住宅やビルなどが立ち並んでいて、その遺跡は街中に部分的に点在していて、平城京など奈良や飛鳥の都のように全体像を想像することは難しくなっています。ただそれゆえに平安遷都以来明治の東京への首都移転までの”都”の歴史的変遷を改めて感じさせられるところでもありました。

神泉苑:平安遷都の際、大内裏の側に造くられた苑地で、当時は広大であったが二条城築城の際、城内に取り込められて約10%に縮小された(入場無料)


1603年徳川家康が上洛の際の宿舎として建てた(入場1030円)


源三位頼政が妖怪「鵺」を退治した時矢じりを洗った「鵺池跡」と碑


平安宮内裏承明門跡碑


平安宮内裏回廊跡


大極殿跡碑


平安宮造酒司(みきのつかさ)跡:酒や巣を醸造する役所


平安宮豊楽(ぶらく)殿跡:国家的饗宴に使われた場所」


豊楽殿に隣接する清暑堂跡:天皇が豊楽殿に出御される際の控えの場所


平安京の中心通りの朱雀大路の北端にあった朱雀門跡碑:当時の朱雀大路は幅84mもあった



  

Posted by むかご at 12:02Comments(0)

2020年01月03日

将軍塚から新春の古都を望む

京都八坂神社へ初詣しました。覚悟をしていましたがものすごい人ごみで、他へ周ることは断念して、青蓮院別院の将軍塚青龍殿へ詣でました。

展望台からのパノラマ写真(中央に京都御所、左奥に愛宕山)

平成26年に東山山頂に建立された将軍塚青龍殿は、移設した元武徳殿で京都府警の柔道道場であった大型の木造建築物に、国宝青不動をお祀りしています。奥殿に安置された国宝本体は秘仏扱いですが、手前にある精巧な複写を拝観することが出きます。
整備された回遊式庭園には、枯山水も取り入れられて、季節ごとに来訪者を楽しませてくれます。
清水の約5倍という大展望台からは、眼下に京都市内が一望でき、西展望台からは遠くハルカスを含む大阪のビルまで遠望できます。
京都市中の喧噪を離れて、東山山頂で静かな初春の景色を存分に楽しんだことでした。

青龍殿正門


青龍殿全景


青龍殿内部


北に比叡山


眼下に平安神宮


庭園の一部





  

Posted by むかご at 11:32Comments(0)

2020年01月02日

謹賀新年

新年明けましておめでとうございます。
令和初めての年明けは見事に晴れ上がり、新しい年への期待が高まっています。
高槻へきて32年連続の安岡寺さんでの除夜の鐘は、今年はぴったり年明けの時刻に撞くことができラッキーでした。
早朝体操会も元日だk休みとあって、1日は久しぶりで8時までゆっくり寝たため、2日朝、一日遅れの初日の出を拝みました。
写真は、家から歩いて20分の高台にある常行寺さんからの初日の出です。



右側にランドマークンあっているJR高槻駅近くの高層ビルが見えます



このところインスタグラムにはまっていて、ブログの方はさぼりがちになっていますが、元気にやっていますのでご安心ください。
インスタグラムは”mukago8897”です。お暇なときにでも覗いてみてください。
  

Posted by むかご at 10:54Comments(0)

2019年12月22日

大阪光の饗宴2019

久しぶりの投稿です。
OSAKA大阪光のルネッサンスの中の島へ行ってきました。
7年目にはいってすっかり定着した大阪光の饗宴は、年々規模を拡大して大阪市内でも7つのエリアに分かれて開かれています。
なかでも中心をなす中の島エリアでは人ごみで交通規制が行われる盛況です。
イルミネーションのいくつかを写真でご報告します。(中央公会堂のプロジェクションマッピングはスライドショウになっています)

大阪市庁舎


中央公会堂への道


中之島公会堂のプロジェクションマッピング


土佐堀川


堂島川


ビッグスノーマン

東地区への道


御堂筋淀屋橋付近











  

Posted by むかご at 11:00Comments(0)

2019年10月26日

宍粟市・不動滝と赤西渓谷を歩く


不動滝

観察グループと共に兵庫県宍粟市赤西渓谷を歩いてきました。
不動滝は引原川の支流にあり、日本の滝百選にも選ばれている名瀑です。落差88mの滝は3段に別れメインの男滝と、その滝つぼから、女滝が左側に向けて落ちてゆきます。

男滝下部

一帯は氷ノ山・後山・那岐山国定公園にあり、渓谷を作る引原川は、氷ノ山から発して、下流でいくつかの支流と合流して揖保川となり播磨川にそそぐ播磨五川の一つとなっています。渓谷は夜来の雨で水量豊かに流れ下り、少しり色づきはじめた木々を織り交ぜて、素晴らしい景色となっていす。



適度な傾斜の谷は、岩を噛む白波が続き、見事な渓谷美です。道筋の草木も深まりゆく秋を語りかけてくれていました。

仲良くよじ登ったイワガラミ


ミヤマフユイチゴ


ジンジソウ


アオツヅラフジ


サワシバ






  

Posted by むかご at 11:00Comments(0)

2019年10月12日

綿向山山麓を歩く

滋賀県日野町にある鈴鹿国定公園内綿向山(1111m)山麓を歩きました。
植物観察を目的とするグループと一緒でした。植生は必ずしも豊かではありませんでしたが、やっと秋めいた一日を快いウオーキングで過ごすことができました。

綿向山遠望


4合目付近の登山道


よく整備されたヒノキ美林


 国の天然記念物「接触変質地帯」の露頭、数億年前の石灰岩に噴出したマグマが貫入し著しい変質岩を作っている



山麓の休耕田に復活したセイタカアワダチソウの大群落






  

Posted by むかご at 10:52Comments(0)

2019年10月02日

元薬師寺跡のホテイアオイ(布袋葵)


一面のホテイアオイのかなたに畝傍山

元薬師寺とは、良西の京にある薬師寺の前身にあたる寺です。天武天皇が後の持統天皇である皇后の病気平癒のため祈願して、天武9年(680年)に薬師如来を本尊とする寺の建立に着手。完成しないうちに天武天皇が崩御したので、持統天皇がその遺志を継いで完成させました。 当時は、金堂や東西に二つの塔がありました。平城遷都に伴って寺は伽藍ともども西の京へ移築されたと言われていましたが、最近では別々に造られたという説が有力です。このような歴史からこの寺は本薬師寺と呼ばれるようになりました。
いま、寺には小堂が建っているばかりですが、前庭にあたる跡地には金堂の礎石や東西両塔の上壇、塔の心礎などが残されています。
最近も、寺から相当離れた場所で南大門の跡とみられる礎石が発掘され、創建当時の広大さが明らかになりつつあります。
近年、寺の周辺の休耕田に地元小学生などの協力によりホテイアオイが植えられて開花時期には新しい観光地として人気を呼んでいます。
2度目の今回の訪問は、ちょうど彼岸花も満開で、ホテイアオイの薄紫色と深紅の彼岸花が鮮やかな対比を示して、奈良の初秋を演出していました。

前方の黒い建物脇で南大門跡が発掘された





元薬師寺跡の碑


寺の庭におかれた元薬師寺の礎石








  

Posted by むかご at 10:54Comments(0)

2019年09月27日

古都の萩:奈良

万葉集に出てくる植物の中で断トツの142首も出ているのが萩です。
その萩の花を見て古人の想いを探ろうと京都に次いで奈良を訪れました。
世界遺産「元興寺」は、奈良市の街中にありながら南都七大寺の中では訪れる人も多くはなく、静かな環境の中で名物の萩の花を観賞することができました。
元興寺は仏教渡来の初期、飛鳥の地に建立された法興寺またの名飛鳥寺が、平城遷都に伴い新京に移され、寺名を法興寺から元興寺に改められました。法興寺が現在の地に移されたときの日本最初の瓦が現在も極楽堂、禅室(いずれも国宝)の屋根に数千枚も使われていることでも有名です。


彼岸花も咲いて


飛鳥時代の古瓦


百毫寺は、高畑の上方、高円山の西麓に位置する古刹で、天智天皇の第七皇子、信貴皇子の離宮跡などと伝わりますが、定かではありませんす。奈良の市街地を隔てて生駒山を望む景勝の場所にある百毫寺は参道の両脇に続く萩の花が有名で、境内にある樹齢400年といわれる五色の椿(県指定天然記念物)でも知られています。受付の女性によると、どういう訳かこの1~2年萩の花付きが良なくてく申し訳ないとのことでしたが、それなりに萩の寺の雰囲気は味わえました。

山門前萩の石段


百毫寺本堂


寳藏前の萩


犬養孝揮毫の万葉歌碑「高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに」
笠 金村(信貴皇子の死を悼んで)


奈良市街を隔て生駒山を望む


近鉄西大寺から橿原寺神宮前行きに乗り最初の尼が辻で降り、垂仁天皇陵に詣でたのち、大和の古道を歩いて唐招提寺に詣でました。
境内のいたるところに植えられた萩は今満開でした。さすが世界遺産の名刹、萩は諸堂の美しさととけあって、しばし静謐の時を楽しんだことでした。

唐招提寺本堂


本堂前の萩


宝蔵と萩


土塀と萩

萩の花を求めての京都、奈良の旅、櫻ほどの派手さはありませんが、古都の社寺に咲く萩の花には、万葉人の心情に触れる思いを新たにしていました。




  

Posted by むかご at 10:44Comments(0)

2019年09月24日

古都の萩:京都

万葉集に出てくる植物の中で断トツの142首も出ているのが萩です。
その萩の花を見て古人の想いを探ろうと京都を訪れました。
まず、今では予約なしでも見ることも可能となった仙洞御所です。ここでは、茶室「又新亭(ゆうしんてい)」の四つ目垣にまとまった萩がありました。

仙洞御所又新亭

御苑の東隣にある梨木神社も萩で有名です。維新の功労者三条実萬、実美父子を祀る梨木神社は、梨木町にあった三条家の旧邸跡に創建されたことでこの名があります。有名な萩の花は、株は多いもののどういう訳か花付きは今一つでした。

梨木神社拝殿前



梨木神社の灯篭

次いで、出町柳の常林寺へ周りました。お寺としても、庭園も小ぢんまりしたものですが、庭一面に植えられた萩の花は満開でした。
小さい山門の階段に座っていつまでも萩の花を見つめている人がいたりして、大きい通りに面していることも忘れて、じぶんも秋空の下の萩の花を満喫しました。

見事な常林寺の萩


  

Posted by むかご at 09:09Comments(0)

2019年09月22日

花無き彼岸花祭り IN 明日香村

彼岸花祭りに1日早い9月20日明日香村を訪ねました。
お目宛ての彼岸花は、遅くまで続いたin猛暑のせいとかほとんどがつぼみで、イメージした棚田を彩る真っ赤な彼岸花とは程遠い淋しいものでした。
それでも、人気の案山子コンテストに出た案山子たちが、彼岸花のさみしさを補うがごとく、観光客を迎えていました。

殆どがつぼみの彼岸花


やっと見つけた彼岸花


早くも登場、全英女子オープンで電撃的優勝の渋野日向子案山子
22日、8打差逆転劇でまたまたびっくり


チコちゃん案山子は「がっかしてるんじゃねーよ!」


稲渕、多武峰方面を望む


例年ならこの時期棚田の畔を彼岸花が真っ赤に染めるのだが


 

参考:2013年の明日香村  

Posted by むかご at 17:37Comments(0)

2019年08月29日

志賀高原ショートステイ4日間の旅第4日 善光寺

志賀高原ショートステイ4日間の旅最終日は善光寺立ち寄りです。
『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれています。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ(元善光寺)、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座しました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の信仰心によって復興され、護持されてきました。
阿弥陀様が発見された難波の堀江とは、いま大阪市立中央図書館の近く西区北堀江にある和光寺、通称阿弥陀が池だつたと伝わります。

善光寺山門(三門)に掲げられた「善光寺」の扁額は輪王寺宮筆とされ、通称「鳩字の額」と呼ばれており、3文字の中に鳩が5羽隠されているといいます。更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を物語っているといわれています。
牛にひかれないでも何回も参詣した善光寺ですが、一行25名のうち3人が初めてだというのには、メンバーがすべて中高年だっただけに少し驚きでした。

山門


畳3枚分ほどもあるという山門の扁額



本堂

山門の右前に享保七年(1722年)に善光寺聖・法誉円信が全国から喜捨を集めて造立したという延命地蔵尊があります。
江戸の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという伝承が伝えられているため、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれています。珍しくあきらかな女形の仏像です。

八百屋お七のぬれ仏

善光寺の特徴は、特定の宗派に属することなく、また昔より広く女人の信仰を集めたことにあるといいます。
言葉に従って本堂では、般若心経と光明真言、あわせて真言宗の称名南無大師遍照金剛を唱えてお参りをさせていただきました。

午前10比較的閑散だった仲見世通り

志賀高原ショートステイ4日間の旅、トレッキング予定の第2日こそ終日雨にたたられましたが、その他はなんとか天気も保ち、まずまずの首尾でした。往復に時間がかかったのはやむを得ないとして、同じホテルでの3連泊は年寄りにはありがたい行程でした。
  

Posted by むかご at 11:37Comments(3)

2019年08月28日

志賀高原ショートステイ4日間の旅第3日横手山・草津・旧軽井沢

8月23日、賀高原ショートステイ4日間の旅第3日は、志賀高原バスの一日券で高原のあちこちを散策する予定でしたが、この日も予報は雨とのことで、急遽オプションの横手山・草津・旧軽井沢のバスツアーに変更しました。
霧のなかをホテルを出発し、しばらくして横手山ドライブインからカーレーターとリフトを乗り継いで横手山(2307m)の頂上へ着いた頃、下から吹き上がる強い風とともに霧も切れて、急に視界が開け、志賀高原の山々が現れました。

横手山リフトより霧晴れる志賀高原展望

ドライブウエイからは「のぞき」と称す展望台があり、複雑な地形をもつ高原の景色を見下ろすことができます。

”のぞき”の展望

車窓から、2018年1月23日に爆発し、犠牲者を出した白根山が白煙を出しているのが見えます。安全確保のための規制がかかっていて、今日は草津へのドライブは遠回りのコースです。

白煙あがる白根山

”草津よいとこ一度はおいで”の草津温泉は、去年11月に宿泊したばかりですが、今回は滞在1時間半だけ、昼食をとって湯畑の近くを散策しただけで時間でした。
湯の花(硫黄)を採集するという場所というので湯畑の名があるそうです。前回は夜の見学でライトアップが幻想的でしたが、昼は昼でまた異なる景色でした。

長さ10mの湯樋を並べて湯温を下げる


噴出する温泉は4000L/分

参考湯畑の夜景 2018.11.6記事

2時過ぎ、1時間30分の旧軽井沢散策が始まります。添乗員からもらったマップは旧軽井沢銀座通りを中心としたものでしたが、銀座通りそのものは変哲もない商店街といった感じで、それほど興味をひくものでもないので、”銀ブラ”はそこそこにして、本通りを少し外れて上皇、上皇后出会いの場所、軽井沢会テニスコートを外から覗きました。その日は無人でしたが、写真や映像で何回も見た若き日のご夫妻が談笑されておられたベンチが正面に見えました。上皇ご夫妻は前日22日、ご静養のため軽井沢に入られ、25日にはこのテニスコートにおいでになり、昔を懐かしまれたという新聞記事が出ていました。

軽井沢会テニスコート

テニスコートからしばらく歩いて有名な万平ホテルでへ行き、お茶でもと申し込みましたが、45分待ちとのこと、時間が足りないので断念し、帰り路で少し入ったところに室生犀星旧宅があり、その隣にカフェもあると聞いて立ち寄りました。
今は軽井沢町の管理になっているという室生犀星旧宅は、自由に参観でき、犀星の娘の朝子さんや杏っ子の名前などを出して質問すると、犀星に詳しい人物と思ったのか、案内の女性がいろいろ親切に説明してくれました。この旧宅は令和元年7月に大改修し、そのとき解体した杮(こけら)葺きのサワラで作った杮板を見学記念にと貰って帰りました。昔の杮葺きは真新しい銅葺きに変わっていました。

室生犀星旧邸


苔が美しい客人邸


見学記念に頂いた旧邸の杮板
令和元年7月室生犀星記念館改修記念杮板とある

お茶をしたカフェは雰囲気もよく静かなたたずまいで、コーヒーもケーキも結構でしたが、ここでも時間に追われてゆっくりできなかったのは残念でした。
  

Posted by むかご at 07:49Comments(0)

2019年08月27日

志賀高原ショートステイ4日間の旅第2日 志賀高原トレッキング

志賀高原ショートステイ4日間の旅のメインコースは全行程9.37㎞、全行程5時間というトレッキングのはずでした。
ところが予定していた第2日は、終日雨との予報。トレッキングガイドの意見で、安全第一を考えて、予定コースを変更・短縮して、高低差が少ない下り主体の三角池(みすまいけ)から、信州大学自然教育園までの半日コースとなりました。
志賀高原は、1千万年前の海底火山活動によるマグマ上昇により形成された島が土台となり、5百万年前再び火山活動が活発になり、大量に溶岩が噴出して、横手山、岩菅山などが誕生、さらに20万年前3度目の大規模火山活動の噴火により、志賀山、白根山、笠ヶ岳などが誕生します。志賀高原はこれら激しい火山活動の繰り返しにより多くの火口や湖沼群、高層湿原などが生まれ、いまに見る変化に富んだ地形を形成しています。
一行25名は三角池を起点として、雨の中、自然林の中を歩いて、いくつかの池巡りです。予想通り雨が激しく、昼前で切り上げ、用意した昼食はホテルで、という欲求不満が残るトレッキングとなりました。

標高1630mにある三角池。志賀高原には大小約70個の池が点在する


雨の中を行く一行


上の小池


コース内の木道


子供が名付けたという「ゾウさんの木」あちこちで見られる倒木更新の例


珍しいヒカリゴケ


霧の長池


かすむダケカンバの林


ホテルの部屋でぼんやり時間を過ごし、3時過ぎに雨が小やみなったのを見て、案内書にあるホテル近くの「せせらぎの道」という遊歩道を歩こうとフロントに尋ねると、あそこはクマ出没で通れなくなっているはずとのこと、とにかく行ってみようと出かけると、やはり通行禁止となっていました。
遊歩道はあきらめて、並行する自動車道をあるき、隣接する一の瀬温泉まで片道約1時間かけて路傍の草木を観察しながら歩き、欲求不満をいくらかでも解消することができました。

午後3時半雨あがる(ホテル前から)


さすがにこの道は通れない



  

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2019年08月26日

志賀高原ショートステイ4日間の旅第1日 小布施

8月21日、志賀高原ショートステイ4日間の旅というツアーに参加しました。
全国的に秋雨前線が停滞するとの予報の中での旅立ちです。

梓川SAから見る有明山(2268m)、背後の燕岳など北アルプスの山脈は雲の中

名神、中央道、長野道と走り継いで、最初の立ち寄り地北信州小布施に着いたのは、すでに午後4時半でした。
近くの飯綱高原に知人のペンションがあって、何回か訪れたことのある小布施の町は「栗と北斎と花の町」が売り物です。
地元の豪商に招かれた葛飾北斎は天保13年82歳の時と、85歳の時に再度この町を訪れます。町にある北斎館には、長野県宝に指定された2基の祭屋台が展示されており、 この祭屋台描かれた北斎筆の『龍と鳳凰』、男波・女波と称される『怒濤』の二枚の天井絵が有名ですが、2017年秋あべのハルカスでの北斎展にも展示されたのを見たあとなので、こちらの入館はパスし、いかにも古い町らしい路地を通り抜けて、地元出身の日本画家中島千波の作品を中心とする「おぶせミュージアム中島千波館」を見学しました。

古い路地道、左は北斎を招いた土地の豪商・豪農高井鴻山の旧邸


町家の前には小布施名物栗の実が実る


マンホールも北斎描く「怒涛」


おぶせミュージアム中島千波館の外庭








  

Posted by むかご at 15:21Comments(0)