2008年09月29日

彼岸花




夏の暑さがどうであれ、きっちりお彼岸のころに咲く彼岸花はとても律儀な花です。
梵語で天上に咲く花の意味の曼珠沙華というありがたい名を別名に持ちながら、900とも1000ともいわれる地方名の多くはユウレイバナ、シビトバナ、ジゴクバナ、ドクマンジュウなどあまりいい名はありません。多分これらはヒガンバナに含まれるリコリンというアルカロイド系の有毒成分からきているものと思われます。
園芸店でも、これをはばかったのか、ヒガンバナの改良園芸種を、そ知らぬ顔でリコリスという学名で売っています。
写真は、お彼岸の時期、高槻原地区でのものです。

(明日から4~5日間お休みします)
  
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2008年09月28日

稲刈り終わる中畑地区 


23日、高槻北部中畑地区では、あらかた稲の刈り取りが終わり、残された最後の田圃の稲刈りが行われていました。
田植えも早かっただけ、収穫も早いようです。
仕事をしていた方に聞きますと、この辺はみな早稲種で、下(しも)のほうより一ケ月ほど稲刈りが早いとのことでした。

(家の前で残された田の刈り取りがされています)  
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2008年09月27日

芥川廃寺跡 




素盞鳴尊神社(9月25日記事)の周辺には、嶋上郡衙に付随する、いま芥川廃寺と称される郡寺があったとされています。この地域一帯から素焼きの仏像破片や白鳳から平安にかけての瓦が大量に出土するなどから伽藍は南北に長い四天王寺系統の配置とみられています。
神社の西隣、田圃の周囲の水路の縁が色分けされており、廃寺の推定規模と配置を知ることができます。濃茶が伽藍、朱と緑が回廊、薄茶が寺域を示しています。
写真、手前の朱と緑の部分が回廊の位置と大きさを示しています。
  
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2008年09月25日

素盞鳴尊神社:廃寺の心礎を廃物利用




嶋上郡衙跡(9月20日記事)のすぐ西に素盞鳴尊神社があります。
素盞鳴尊を祭神とし、創建の年月なども不明ですが、ここで注目されるのは、あまた遺物が出土し、この周辺が芥川廃寺と称される嶋上郡衙に付随する郡寺があったとされることです。
神社の境内にある手水鉢は、郡寺にあった塔の心礎を転用したと思われています。礎石や彫られた穴の大きさから、規模は三重塔だったと推定され、穴が二つあるのは、何らかの理由で立替が行われたときに、上に乗る建物の大きさが変わったからではないかといわれています。
郡寺が廃字になったのち、使われていた石造物はあちこちで転用されたらしく、いまでも農地の溝蓋などに使われているなどの例があるそうです。
  
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2008年09月23日

消えるランドマーク 


解体開始の朝撮影(背後は大阪駅周のビル群)


自宅の窓から、大阪駅方面を眺めるとき、昼も夜も最も目立っていたのが、茨木市総持寺に建つフジテックエベーター研究塔でした。高さ150mのこの塔は、1975年に建設され、当時は世界最大の規模と高さを誇っていました。
今回、会社が彦根市に引っ越しし、そこに高さ170mの世界最大級の研究塔を新設したため、茨木市の塔を解体することになったそうです。
解体は9月22日に始まり、12月までに完了するよていとか、長年なじんできたランドマークが無くなると思うとちょっぴり寂しい気持ちです。
  
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2008年09月21日

室戸台風殉難之碑:如是小学校 


室戸台風殉難之碑



74年前の今日、昭和9年9月21日午前5時、四国室戸岬付近に上陸した台風は、8時ごろ最大風速60Mの猛烈な勢力で阪神地区に再上陸し、各地に甚大な被害をもたらしました。
中でも小学校の被害が大きく、全体で180校、489棟の校舎が全半壊し、死者は教諭7名、用務員25名、小学生267名におよぶ未曾有の大惨事となりました。
ここ高槻如是小学校でも、校舎の倒壊よって、教諭3名、生徒30名、計33名もの多数が痛ましい犠牲となりました。
今、校庭の一角に「室戸台風殉難之碑」が建ち、背面に殉難者33名の名が刻まれています。
幼い小学校生だけではなく、教諭を含め多数の教育関係者が犠牲となったこの大惨禍は、小学校校舎の構造強化をもたらし、また大阪馬場町の教育塔建立の契機にもなって、いまに語り継がれています。
  
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2008年09月20日

嶋上郡衙跡:豊かな三嶋の中心 




清福寺太子堂(18日記事)のすぐ西に嶋上郡衙(ぐんが)跡があります。
郡衙とは、8~10世紀の律令制度下置かれた群役所をいいます。
昭和45年、川西小学校西側の発掘現場で、立派な石組みの井戸から「上郡」と墨書された土器が出土しました。同時に大きな建物の跡もみつかり、摂津の国嶋上郡の群役所と特定され、畿内では初めての確認例となりました。
嶋上郡を治めた郡司は、現在の郡家地域一帯を本拠としていた「三嶋県主」(みしまあがたぬし)一族と考えられ、また下級役人たちは、西の郡家今城塚遺跡の村から郡衙へ通っていたと推定されています。
周囲に回廊をめぐらせ、正殿、脇殿、倉庫、役人たちが仕事をする官舎などが、当時の主要路である山陽道に向かって、整然と配置されていました。その昔、この地域が豊かに繁栄していたことを物語る遺跡です。
いま、この中心部分の推定モデルをレンガで1/3に縮尺し平面的に表現しています。
  
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2008年09月18日

清福寺太子堂:大工職人の心意気 




西国街道芥川の宿の西、芥川を渡った北西すぐに清福寺太子堂があります。
間口一軒四方の小さなお堂ですが、宝形造(ほうぎょうづくり)の建物で、堂内には聖徳太子少年像が安置されています。
ここ清福寺地区は、江戸時代多くの大工職人が集住し摂州十組のひとつに数えられる大工組を組織していました。太子堂は、大工の始原神として崇められた聖徳太子を祀り、大工仕事の繁栄を祈願し、職人たちの結束を固める象徴的存在として、明和2年(1765年)に、清福寺大工組によって建てられました。
かつて大工組が集まった地域は各地に多くあるものの、このような建物が現存しているのはごく珍しいことです。小さいお堂ですが、さすが本職の手によるものだけあって、手の込んだ造りとなっています。
市の有形文化財に指定されている太子堂は、かつての大工職人のたちの誇りと団結を今に伝えています。

  
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2008年09月16日

天神さんではこれに注目





JR高槻駅の北すぐ上宮天満宮は、大宰府についで2番目に古い天神さんで知られていますが、本殿よりも上がったところのすぐ右にある野身神社は、小さいけれど延喜式にある式内神社で由緒あるお宮さんです。
もうひとつ、本殿前右脇柵の中にある石灯篭は、鎌倉時代初期の作と伝えられ国の重要美術品になっています。
お参りのときは、こういった古い歴史の跡にもご注目いただきたいものです。
  
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2008年09月14日

芥川宿に残る提灯商 






西国街道芥川の宿に今も商いを続けている提灯商があります。
軒下の「提灯商」の看板や、窓の上に欄間風に彫り抜かれた「かさちょちん」の文字など、この店の古い歴史を物語っています。
窓から覗きますと、職人さんが大きな提灯をつくっている姿が見えました。
娘婿の実家が芥川にあり、2人の孫娘が生まれたとき、こちらのおじいちゃんが、この店で名前入りの提灯を作って、芥川堤の傍のお地蔵さんに奉納してくれたと聞きました。
  
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2008年09月13日

橋下知事:納得の人気


自前の祝辞を述べる橋下知事


府立国際会議場


グランキューブの名の通り建物はキュービックなデザインで統一


ある大きな団体の創立50周年祝典で、橋下大阪府知事が祝辞を述べました。
少し遅れてSPを引き連れて登壇した知事は最年少知事らしく、颯爽とした若武者振りでした。
事務方が用意した祝辞の紙を拡げはしたものの、それに目を落としたのは最初と終わりだけで、中味は全て自前のそれも的確な内容で、流石のものと見受けました。
会場は大阪府立国際会議場(グランキューブ)で、学会などの大きい会議の予定が続いており賑わっている様子です。こちらは橋下知事の廃止対象にはなっていないようです

  
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2008年09月12日

芥川仇討ちの辻 


高槻城に続く一本道


辻に立つお化粧地蔵


JR高槻駅から歩いてすぐ、西国街道芥川の宿の一里塚のそばに立て札がありここが「芥川仇討ちの辻」と知れます。
300年ほど前、14歳の少年が辛苦の末父の敵を討ちますが、討たれた武士の懐から、自分に罪があり、打たれて当然、討ったものに咎がないむねの書状が入っていました。
この仇討ちは、当時の武士道のモラルを貫いた美談として広く全国に喧伝されたといいます。
この辻から南東へのびる道は、高槻城に続く一本道になっていました。
辻に立つ小さいお地蔵さんは綺麗にお化粧されていましたが、少しいかついお顔でした。

  
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2008年09月10日

稔る酒米「五百万石」 




高槻市原地区のどぶろく特区「はらいっぱい」は、地元の活動家HさんやKさんが醸すこだわりの銘酒をあじわえるというので最近人気のスポットです。
“全て手作り”の看板どおり、今近くの田圃では自分で植えた酒米「五百万石」が稔っています。
一般用の米とは異なり、醸造用のお米は、精米時に中央の芯白をだすため粒が大きくて、雑味のもととなるタンパク質や脂肪分が少ないものが適しているといいます。
酒米としては「山田錦」がよく知られていますが、今年植えられた「五百万石」は、フルーティなお酒に仕上がるのが特徴だそうです。
酒米は普通のお米より早く稔るので、雀の集中攻撃を受けやすく、今は赤いネットで守っています。今週末には刈り取る予定だそうです。芳醇な新酒を味わえるのも間もなくです。
  
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2008年09月07日

日本銀行大阪支店見学


旧貴賓室


旧館の外観は建設当時の姿をとどめている 


あるグループで中ノ島の日本銀行大阪支店を見学しました。
通常一般人には無縁の日銀ですが、それだけに中がどうなって何をしているのか大いに興味があるところです。約1時間半の見学では、職員による案内で、営業場や明治時代の貴重な資料等を見学し、日本銀行の役割や業務について知ることができます。
昭和55~57年建て替え時、明治36年建設の辰野金吾博士の設計になる旧日銀大阪支店は、歴史的建築物として外観部や、内部の一部が建設当時のままの形で保存され、内部が見学コースとなっています。
さすが日銀だけあって、安全上のためか、敷地内、館内では一切撮影禁止、僅かに、旧貴賓室でだけ記念撮影が許されました。
  
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2008年09月05日

神戸市に今も残る土葬の風習 




JR道場駅から船坂川沿いに百丈岩へのハイキング道のそばに土饅頭の墓場があります。
どの土饅頭の前にも樒が供えられていて、今も熱心にお参りがされている様子です。
いまどき珍しいと近くで農作業をしていた婦人に尋ねました。
ここは、神戸市北区道場町生野地区で、大半は火葬ですが、家族や本人の土に還りたいとの希望で今でも土葬にすることがあるそうです。
火葬以前のお墓は代々受け継がれて、いまでもお参りを欠かさないといいます。
土地に根付いた弔いの風習が今なお根強く生きていることにある種の感銘を受けたことでした。
ちなみに、むかごの住む高槻市では、北部の樫田地区だけが法的に土葬が許されているそうですが、市の話では少なくともこの10年来は土葬にしたという話は聞かないそうです。


むかごの郷里、和歌山県有田川町には、両墓制という近畿地方のところどころに残る日本でも珍しい風習が残っていました。そこでは、死体を埋葬した場所には、簡単な木製の雨よけをつくり、何年かはそこへお参りしますが、死体を埋葬した地(埋め墓)には石塔を建てず忘却にまかせ、やがてその雨よけが朽ちるころには、別の場所にある(建てる)石塔に死者をお祀りします。土葬の墓地は年経れば被葬者の埋葬地点は不明になり、そこに別の死者を葬ることになります。
この制度は、埋葬地点に立塔していると余地がなくなる、穢れた埋葬地を離れて清浄な場で霊を祀る、埋め墓が遠いので便利のよいところへお参りする、などの理由によるものとされています。
20年ほど前母をなくした時は、郷里は、ちょうど火葬が普及する過渡期で、荼毘に付したお骨を土葬して、形式上は両墓制を守りました。そんな形も今ではなくなってしまったといいます。
道場で見た土葬の墓はいつまでもお祀りしている点で両墓制ではないようですが、ちゃんとした石塔が別にあるかどうかは聞き漏らしました。
  
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2008年09月03日

部落毎に火葬場②:昔の高槻  






一昨日の続き、部落ごとにあった火葬場の跡です。
あくあぴあ芥川の上を通って攝津峡入り口へ通じる道路の左脇に石の階段があり、先に小さな祠があります。
誰も気がつかないようなひっそりとしたこの一画は西之川原地区の火葬場の跡でした。
やはり小さな祠の中に石像が祀られていて、右側にお地蔵さんの列があります。(07年11月9日記事)
少し離れた芥川の東側、橋のほとりにあるのがこの地区の墓地のようです。
ところで、今市民に親しまれている天神山図書館も昭和39年までは火葬場でした。


(お詫び:リンクでページが出ませんでした。修正しています)  
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2008年09月01日

部落毎に火葬場①:昔の高槻 


火葬場の跡


中には供養の石塔



高槻に生まれ育った友人から、昔は各村に斎場(火葬場)があったと聞きました。家からすぐ近くにもその跡があるというので立ち寄りました。
いま浦堂地区の墓地になっているところがそれです。そばで畑仕事をしている方に尋ねました。お話によりますと、今祠になっているところが数十年前までは火葬場で、薪を焚いて荼毘に付したそうです。うまく焼けないことがあるので、当番の村人がよっぴて火の番をしたといった話を知っている人もだんだん少なくなってきたといっていました。ここの斎場(墓地)は村単位ではなくて、いまも地域の菩提寺の単位で営まれています
去年春ネパールの川岸での公衆の前での火葬(07年3月22日記事を見て、ショックを受けたのを思い出しました。生老病死は何も特別のものではなく、すぐれて日常的なものであることを改めて感じさせられました。



  
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