2007年09月30日

彼岸への道:仏隆寺の彼岸花 



近鉄榛原駅から曽爾行きのバス、高井で降りて30分ほど歩くと佛隆寺に到ります。
仏隆寺は真言宗室生寺派の末寺で、室生寺の南門として、また室生古道の入り口としてよくしられています。
今、門前の石段の両側には満開の彼岸花が一面に咲き誇り、見事な景色です。
真っ赤な花に囲まれた道は、あたかも善男善女を仏の世界へと導くかのように続いていました。

  
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2007年09月29日

牛地蔵 


旧京坂越え道の左、神峰山寺口側に牛地蔵が祀られています。
昨日の記事、京坂越えで働いた牛の供養の為、地元東條垣内の有志が天保4年(1832)に建立奉納したと伝えられます。
またこの牛地蔵は、牛は草を食うところから、子供のできもの(瘡・くさ)を食って治してくれるとか、牛は強脚だから、足腰の病気にご利益があるなど、今でも地元民の信仰を集めているようで、何時見ても生花が途切れることはありません。
小さな祠に吊り下げられた藁具を見ると、普通の草鞋に混じって、牛用の藁草履が奉納されていました。
車や耕運機が牛に取って代って久しいのに、今でもこれを作れる人がいるということに不思議な思いでした。
  
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2007年09月28日

史跡「京坂越え」 2007.9.28



丹波亀岡から地獄谷・千原の里(現、原地区)を経由して淀川へ通じ、物資の運搬、西国札所三十三ケ所巡りにも利用された古道がありました。この道を使って原からも特産の寒天を初め薪炭などを牛にかつがせて淀川の前島浜まで運んだといいます。高槻藩の石高の30%以上はこの地蔵峠を越えた丹波、茨木五ケ庄からであったそうです。
原から神峰山寺への入り口辺に、史跡「京坂越え」の石碑が建っています。成合に続く「京坂越え」のこの道は最近拡幅簡易舗装がされ古道の趣がなくなりました。  
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2007年09月27日

豊作祈る小学生



高槻原地区を歩いていると、いまどき珍しい案山子が3体並んで立っているのが目に付きました。近づいてみると「この田圃は小学生が農業を体験するため米作りをしている学習田です:北清水小学校」の立看板がありました。
案山子のそばには小学低学年と思われるかわいい字の短冊がぶら下がっていて、それぞれ豊作を願う言葉が書かれています。
小学生の手だけでここまで育てられたとは思えませんが、見たところ稲は立派に稔っていました。
看板には「農事実行組合原連合」の名もあり、地域の方々の協力のほどがうかがえました。

  
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2007年09月26日

キンエノコロ


ヒガンバナを見に高槻原地区へ行きましたが、どういうわけか今年はあまり綺麗に咲いていません。
代わりわりIと撮ったのが、西陽に輝く休耕田のキンエノコロです。  
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2007年09月25日

甦る村の歌舞伎


「舞台と奈落 」 最初は後向きで→重い!→動いた!→やっと正面へ


彼岸の墓参りに郷里の和歌山へ帰りました。お寺に近い神社の森からなにやら聞こえてくるので立ち寄りました。音は10月の秋祭りに向けての歌舞伎の稽古でした。
有田郡旧二川村の氏神丹生明神社(現城山神社)では、昔から秋祭りの日、村人たちによって歌舞伎芝居が奉納されてきました。私が郷里を出た昭和25年ごろまでは続いていたと記憶しています。
門前小僧の私でも、太閤記十段目(太十)の夕顔棚からサワリの操のくどきくらいまでなら、今でも空でいえるほど、村人にとって関心の高い一大イベントでした。
その後保存会の方たちの努力によって復活したものの、浄瑠璃、三味線が出来る人がいなくなり、わずかに寿式三番叟が奉納されると聞きました。(二川歌舞伎芝居)
中でも珍しいのは、神社に対面する舞台の回り舞台です。“周り盆”の直径は4.2m、「狛楽回し」という構造で、床下の石段上に設けられた「奈落」で、8人の裏方が回転棒を回します。県下唯一のこの回り舞台は無形民俗文化財に指定されています。
55年ぶりに見る村歌舞伎の稽古風景、保存会の面々には一人も知った顔はいませんでしたが、往時を思い出して懐かしさでいっぱいでした。
  
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2007年09月24日

藤井竹外:高槻が生んだ幕末の漢詩人


昨日地域の老人クラブの敬老懇親会があり、席上詩吟で藤井竹外の漢詩「芳野」が吟じられました。
ちょうど前日、現代劇場での市の美術展の帰り、すぐ北の竹外屋敷跡に建つ竹外の詩碑を見てきたばかりでしたので、興味を持ちすぐにお隣の詩吟の達人に竹外について話を聞きました。
高槻が生んだ幕末の漢詩人藤井竹外は、有名な頼山陽、梁川星巌に師事し、七言絶句という定型詩を得意としました。今も伝わる彼の七言絶句は約400篇をかぞえ、詩吟の世界ではとても人気がありよく吟じられるそうです。
詩碑に彫られた漢詩は、詩集「竹外二十八字詩」で自ら巻頭に選んだ「花朝澱江下」と題したもので

桃花 水暖かにして 軽舟を送る
背指す 孤鴻没せんと欲するほとり
雪は白し 比良山の一角
春風なお未だ江州に到らず

と読めました。  
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2007年09月23日

シダレザクラ:残暑に咲く 


高槻市美術展を覗いた帰り、現代劇場を出たすぐの道路わきに桜が咲いていました。
四季桜とか普段桜といわれる品種かと思いましたが、名札を見ると単にシダレザクラとありました。
珍しいと思って写真を撮っていると、通りがかった婦人が何ですかと尋ねますので、桜が咲いていますよと教えてあげました。私も撮りましょうと携帯をとりだすので、枝を引き寄せて手伝ってあげました。
どうして今頃花をつけるのかわかりません。 
散り始めていましたが今なら間に合うと思います。ご関心ある方はどうぞ。  
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2007年09月22日

校庭に古墳:紅茸山古墳


高槻紅茸町にある私立第八中学校の校庭の一隅に紅茸山古墳C-1号古墳が移設保存されています。
昨日の安満山から檜尾川を隔てて西南に小高い紅茸山が望めます。
1970年、第八中学の建設に先立って発掘調査が行われ、一帯に弥生時代後期の集落跡に重なって5~6世紀につくられた17基の古墳が見つかりました。
校庭に移設保存されたのは一番新しいC-1号(円墳・直径約12m)で、横穴式石室です。
石室は長さ約12mで、床面には副葬品や、鉄製武器などが散らばっていたといいます。出土品などから6世紀末ごろにつくられたとされ、被葬者は眼下に広が別所一帯を治めた豪族と思われています。
校庭に保存された遺跡は私にとっては珍しいものに見えましたが、当然ながら放課後遊ぶ生徒たちにとってはじゃまっけそのもののようでした。
  
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2007年09月21日

安満山古墳群 


昭和44年、市の公園墓地の造成に先立って行われた調査で、高槻市北東部安満山の中腹に6世紀後半から7世紀にかけて築造された大規模群集墳が発見されました。
横穴式石室をもつ40数基の円墳が確認され、多くは破損埋没していましたが、中には旧状をよくとどめているものもあり、多数の遺物が出土しました。
そのうちのA1号墳(写真)は、公園墓地の一角に保存されています
檜尾川流域にあった古代の集落の有力者たちが被葬された安満山ですが、いま高槻市の公園墓地として大規模な庶民の墓地としてひろがっています。
  
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2007年09月20日

安満遺跡


高槻八丁畷町の京大農場内に安満遺跡があります。
昭和3年京大付属農場建設の際に発見され、出土した土器などから、北九州で始まった弥生文化と稲作がいち早く畿内に伝わったことが明らかになりました。
東西1200m、南北300mの環濠集落跡で、環濠の南には井堰があって水田がひろがり、東と西は墓地で、とくに東には周溝墓といわれる溝で囲まれた墓が100基以上もあったことがわかりました。
昭和41年からの調査では、木製農具をはじめ多数の木器、石器、土器、金属器が出土し、中でも重厚なつくりの木棺は他に例がないなど、弥生時代の集落、生産地、墓が一定の範囲で良好な状態で残っていることがわかり、平成5年国の史跡に指定された貴重な遺跡です。
平成9年に「青龍3年」の銘がある銅鏡が発見されて話題を呼んだ安満宮山古墳は、この遺跡の北方安満山の中腹にあり、ここ安満に拠点をおいた豪族が被葬されたと考えられています。
安満遺跡は、いま、金網で囲まれて運動場のように広がっています。
  
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2007年09月19日

大神宮社 


高槻樫田地区中畑にある大神宮社は、祭神に豊受姫命(トヨウケヒメノミコト)いただき、創建の年月は不詳ですが、社伝によれば元禄11年(1698年)に本殿を造営したといいます。
毎年2月に祈念祭、10月に秋祭、12月に新嘗祭などが今も古式に則り神事が執り行われるといいます。
2本の老杉にはさまれて、小さな鳥居があり、全体として質素なたたずまいのお社です。
参詣の人影も見えない参道脇の土手には、イワナシ、アクシバ、スノキ、ショウジョウバカマ、ノギランなどが生えていて、植物好きには嬉しい道です。
  
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2007年09月18日

川久保渓谷に咲くアケボノソウ:曙草


川久保渓谷をほぼ登りつめたあたりに、先週末、アケボノソウ(曙草)が清楚な花をつけはじめていました。リンドウ科センブリ属のアケボノソウは、深い山の湿地に生える2年草で、星形に開いた花びらに緑紫色の小さい点々と黄緑色の丸い模様(蜜腺)が2個あります。曙草の名は、この黄緑の蜜線を山
に、緑紫色の点々を、白み行く明け方の空に残る星に見立てたもので、絶妙の名づけといえます。
アリが黄緑の蜜腺に集まって採蜜に余念がありませんでした。
人里離れた山奥に咲くこの花は人気があり、毎年のようにこの花を見ては、秋の訪れを実感する愛好家も多いようです。
  
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2007年09月17日

諏訪神社と川久保尋常小学校跡 


窪地に集落が集まる高槻川久保地区の高台にわずかに平地があり、村の氏神様の諏訪神社が鎮まっています。武御名方神(たけみなかたのかみ)を祭神とし、社伝によると元慶4年(880)に信州諏訪神社の分霊を勧請したといいます。
また社前の小さな広場はかつて川久保尋常小学校があったところで、記念碑が建っています。
社頭にけやきの巨木があり高槻の古木に選ばれています。
  
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2007年09月16日

川久保集落 


高槻へ移り住んだ20年前、川久保に幽霊が出るという噂が流れていました。高槻駅で若い美人を乗せたタクシーが川久保に着いたら、姿が消えていて、座席は水でびっしょり濡れていたという話が、あるラジオ局から流れ、噂がひろがったのです。
高槻東北部の川久保は、四方を山に囲まれ、川が流れて地勢が窪んでいるため昔は窪が原と呼ばれていたそうです。
ほとんど平地らしい平地がない川久保の集落を見下ろすところに、諏訪神社があり、社前の小さな広場は昔小学校が建っていました。ここから見る川久保の家々は本当に窪地に寄り添うように集まっています。
幽霊の話も忘れられた今、水無瀬川の上流となる川久保渓谷は、ポンポン山へのハイキングコースとして多くのハイカーが訪れます。  
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2007年09月15日

川久保渓谷:植物観察のメッカ?


植物観察で賑わう川久保渓谷とオタカラコウ


高槻北東部川久保渓谷は、ポンポン山への登山道であるとともに、渓流沿いの道は豊かな植生でも知られ、植物好きに人気があります。
昨日、川久保行きの朝のバスは、満員で、4つと見えたグループのすべてが植物観察目的であったらしいのには驚かされました。
渓谷の上流では、今、川久保名物オタカラコウの群落が黄色い花を咲かせています。また清楚なアケボノソウの花も咲き始めました。
  
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2007年09月14日

秋海棠:美人の涙 


裏庭に今年も秋海棠が咲きました。
江戸時代初期に中国から渡来したといわれますが、庭の影に薄紅色の花を点在させて秋の訪れを告げる様子はどこか日本人の心情に訴えるものがあります。花が垂れ下がって咲く姿が、春咲く花海棠に似ることから秋海棠の名があります。
中国の古い話、ある女性が恋人に逢えず毎日北窓で泣き暮らしていて、その涙のこぼれたところに生えた草の姿が、いかにも女性が泣く痛ましい姿に似てなまめかしいので断腸草と名づけられました。これが今でいう秋海棠だといいます。
秋海棠は雌雄異花で、雄花(写真右下)は、大きな2枚の萼片と小さな2枚の花弁からなり、黄色の雄蕊の丸い集団がつきます。雌花(写真左下)には同じ色の先が割れた3本の柱頭(雌蕊)があります。雄花は沢山つきますが、雌花は栽培条件がよくないとあまりつきません。その代わりに葉脇にむかごがつき、それがこぼれて翌年発芽し殖えてゆきます。
どこにでも見られる秋海棠ですが、こんなことを考えながら観察するのも楽しいものです。  
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2007年09月13日

初秋の保津川オヒガンギボウシを訪ねて 


保津川と清滝川の合流地点とオヒガンギボウシ


岩肌を可憐に飾る珍しいオヒガンギボウシを訪ねて初秋の保津峡から清滝川を遡り清滝まで歩きました。オヒガンギボウシは、山中の岩石や木の幹の上に着生する多年草のイワギボウシの変種とされています。初秋に入って葉の間から20~40cmの花茎を出し、淡紅紫色の漏斗状鐘形の花を多数つけなかなか美しいものです。オヒガンとは彼岸の頃に咲くギボウシということでしょうが、図鑑を検索しても見つかりませんでした。この一帯だけに咲く花かも知れません。
厳しい残暑の中、保津川下りの船が涼しげに下ってゆきました。  
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2007年09月12日

磐手神社の夜啼き石


磐手地区の古い岩石信仰のなごりとも見られる石がここ磐手杜神社にもあります。
高槻城の老臣長田平八郎がこの社でみつけた奇岩を持ち帰り自己の庭園に置いたところ、夜な夜な“あまへいのう あまへいのう”と啼くので、これは霊石であるとおそれ、再び社頭に返したという「夜啼き石」です。
同様の話が川久保にもありましたが、今はなくなっているそうです。
注連縄が張られた「夜啼き石」には、蔦が一面に這い繁り、面も定かではありません。石の霊力もいまや失せたということでしょうか。
  
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2007年09月11日

磐手杜神社 


西国街道の安満を山手へ折れ、堤防の急坂を登り檜尾川を渡ったところに磐手杜神社(イワテモリジンジャ)があります。
天児屋根命(アメノコヤネノミコト)ほか3体を祭神とするこの神社は、天智天皇の5年、藤原鎌足がこの地に勧請して安満神社と称したと伝えられ、12世紀ごろ春日社となり、さらに明治44年に現在の社名になりました。春日の名を冠したのは昨日の春日神社と同じく、当時安満一帯が奈良春日大社の荘園であったためと見られています。拝殿には春日大明神の額が掲げられています。
建久6年(1195)後鳥羽上皇がこの地を訪れた頃は神域、社殿は壮大美麗であったそうですが、天正年間に高山右近の兵火に逢い、元和八年(1622)再建されました。
社頭の森は磐手の杜といわれ歌枕ともなっています。
また5月5日の「馬祭」は「神輿渡御神事」として市の無形民俗文化財に指定されており、豊凶を占う1月15日の「粥占いの神事」もよく知られています。  
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